Progress?

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小林はこんな経験は初めてであった。動けない。胸のバッジが街灯で照らされ鈍く反射するが、それを以てしても自分の持っている権力すらも、小柄な外国人女を見てからつい、頭から抜けてしまった。言葉が出ないなど、数多の人間を口先だけで天国にも地獄にも誘ったその経験が、まったく働かない。まるで、触れてはいけないものと対峙しているような。  沈黙を破ったのは女の方だった。今まで小林がさんざん投げかけた質問に答えてやるのだからありがたく思え、と言わんばかりの態度を隠さず、不遜に、無遠慮に、そして図々しく返答する。 「あんたはバカか?ゴミを出してるだけだよ。見ればわかること……それとも、ここらのおまわりは自分らで何もしないで全部他の人にさせてるもんだから、脳みそが退化してどうにもならなくなった?」  ほう、と小林は唸った。こういう、公務員を舐め腐っているやつを見るとみるみるイライラしてくる。所詮不法滞在者で税金も払わないのに、天下の公務員様に逆らうとはふてえ野郎だ、と小林は唸り声の中にそれだけのことを込めた。 「こんな夜中に、そんなもんを引きずってりゃ誰だって怪しく見える。見たところ60キロはあるじゃねえか。身分証は?どこに住んでる?仕事は何をしている?」 「あんたに関係ない。アタシに関わるな」 女はぴしゃりと言った。小林は相手が、自分がそれをやさしさで言っているんだぞ、と含ませているのが到底気にくわなかった。不審者風情が、法の番人に情けをかけるとは。 「ろくなことにならない。あんたのためさ」 「ふん、関わるとろくなことにならないやつをぶん殴る権利がおれにはあるのさ……その中身、さては薬だな?このところ違法USBが流行ってんだ。おとなしく中身を見せろ」  小林はバッジを再度、くいっと見せつけた。露出狂が男根を遠慮なくさらけ出すように。 「そんなメッキのバッジ、こわかないね……いいよ、見てごらん」  女はゴミ袋をおろし、中を開けた。 「乞食みたいに隅々まで漁ってみなよ。目当てのもんを見つけられるように頑張りな」  小林は街灯の下に置かれたゴミ袋を意気揚々と開けてのぞき込んだ瞬間に絶句し、その直後悲鳴をあげそうになり、しかしそれはかなわなかった。  小林がゴミ袋を開けて中を覗き込んだとたん、生臭い悪臭を発する大量の人間の臓器を目にし、そして下を向いているまま絶命したからだ。女の手には、そこらに落ちていた割れた道路鏡の破片が握られていた。それは、小林の首から出た血で真っ赤になっていた。小林がゴキブリのようにかじりついて女から離れそうにないと彼女が察したときに、もうすでにどうするかを決めていて、割れた道路鏡の下に落ちていた破片を拾うことを決めていた。  山田は暗がりに死体を隠して戻ってきたら、また死体と対面する羽目になるとは思ってもいなかった。小林は首から血を流しながら、ゴミ袋に頭を突っ込んで死んでいる。小林から解放された喜びが先行しつつも、この場を切り抜けなければ……そう考えているうちに、相手に、額に小林の首から引き抜いたガラス片を突き立てられた。 「ダニがもう一匹いたとは思わなかったね。まぁ……殺すけど」 「ま、まて!おれは話が分かる男だぜ!?」 「いや、あたしの話は人間にしか通じない言語だから。わかる?ダニ」 「く……」 「まあでも、あんただって生き血を吸うことはできるわけだ……つまり有害な存在さ。見たところ、うちが賄賂を配ってるポリじゃないしね」 「う、ち?」  山田はこの言葉で、生存への活路を見出した。警邏の巡査はこの時代、もっとも地域の悪党どもと密接なつながりがある。もしもこいつが、自分が懇意にしているストリートギャングの汚れ役なら…… 「なあ、決して悪いようにはしないぜ。何も見なかったことにしておくから……お前んとこの親分も、新しい手なづけられそうなおまわりはとっときたいんじゃないのか?」 「……」 「どこのギャングだよ?八千代ブラックウルフか?藤崎マフィアか?それとも船橋デスライダーの……な!?お前がさっきぶち殺したおまわりはおれも嫌いな奴だった、だからむしろ感謝してるくらいだ!なあ、頼むぜ……絶対に誰にも言わないから命だけは助けてくれ!」 「……何寝ぼけてんだ?おまわりなんて掃いて捨てるほど抱えてる……もういらないよ、って聡が言ってた」  山田はこの発言ですべてを察した。  こいつは、そんじょそこらで縄張りゲームや、薬局ごっこで地元警官と仲良く喧嘩しながらぬるま湯に浸かっているやつじゃない。  地元公安もお手上げの、絶対に関わってはいけない最狂集団。警官殺しなど呼吸と同じくらいためらいがない、明日を捨てて今日の利権と、生存の満足を糧にしている連中。  そうだ、前にマル暴のファイルを覗いた時に、そいつらにロシアだか、トルコだか、イランあたりから逃げてきた戦場帰りのアサシン兼、トラブルバスターがいると……  そいつは、津田沼駅前を血の池に変えたこともあれば習志野クリーンセンターに大量の腐肉と人骨を持ち込んで稼働停止にさせることもやすやすとできる。きちがい集団の、最も正気のタガを置いてきた地獄の悪鬼。  そいつの名は……  デビル。  終わりを悟った山田はもう、笑う以外に術はなかった。  最期の瞬間くらい、嫌なことだらけの人生で大笑いしたかったからだ。  しかし、大声をきらうデビルは小林のホルスターから拝借していた拳銃の銃口に自身のトラックスーツをサイレンサー代わりにかぶせたもので、山田の脳天を二発撃ち抜いた。山田は、ふがいない人生を終わらせた。デビルは、山田の死体を肉屋で売られているただの血と肉の塊としか捉えていなかった。 その後山田と小林の死体を路地裏に引きずり込むとウェストバッグからメスを取り出して、もう彼らには必要ない血で濡れそぼった制服をはぎ取った。ついでに見つけたのは先ほど山田が適当に隠したネパール人だが、偶然新鮮な死体がもう一つあったので、いい小遣い稼ぎとデビルは考えた。  そのメス捌きは医者顔負けのものであった。よほど何度も人の体を切り刻んだ経験がなければ、まともな教育を受けたこともない彼女が肉屋顔負けの鮮やかな工程で解剖などできない。売り物とゴミを分けてゆく。  デビルは端末のメッセージですでに然るべき対応をこなす者を呼んでいた。デビルが腎臓や肝臓、眼球、肺、心臓など価値のあるものを丹念に取り出し、ほこりがつかないよう、床に引いたジャージの上に優しく置き、肉と骨をそこらに無造作に投げ捨てた。野良犬かカラスが食べてくれるだろう。 こんなものはそこらのドブ川にいくらでも流れている。どうせ介護しきれなくなった老人や、産む予定のなかった新生児の死体がたくさん浮いているのだから、とデビルは思いながら死体を処理する。  自分が生きている理由を考えると、約束は破りたくない。嫌悪の対象ではあるが、それでもだ。  
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