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 ナナちゃんを昼寝に誘うと、彼女は実に素直に眠った。都合のいい、七歳の素直なナナちゃん。  睦月はナナちゃんの眠りの深いのを確認し、また確認するという行為の馬鹿らしさに疲れながら、なな@nana_19960423のアカウントのホーム画面を開いた。ブロック一覧から件の研究者を選び、ブロックを解除の後、じっくりと5ミリのアイコンを見つめる。一つ息を吐いて、アカウントをタップした。  妻が撮ったという彼の姿が画像一覧のなかに現れる。歳を経たとはいえその顔は、滝野愛加失踪時のおかしな髭のコメンテーターに違いなかった。睦月の鳥嫌いの、カイゼル髭恐怖の、原因がそこにあった。原因を思い出してみれば、髭そのものへの嫌悪と恐怖は消えており、小柄な老人の顔につけられた滑稽な飾りでしかない。  恐ろしいのは、目撃した出来事――滝野愛加の失踪事件を解決する糸口になるかもしれない情報――を自己保身のために隠し、さらに滝野愛加の存在を記憶から消し、しかし一方でケア要因として彼女そっくりの永遠の七歳児を自身の内に作り出し、ペド野郎アジとの交流を許し、ナナちゃんを媒介としてアジという男に精神的に頼り切り、ナナちゃんに代弁してもらうことで課長に感情をぶつけ、休職という権利を得てのんべんだらりと過ごしながらも、島流しの気分でなんらかの責を負うているという自己憐憫にひたり、その暇を潰すのにまたアジを利用し、とうとう逃げられぬとなったその時にも心中のナナちゃんに滝野愛加の名を引き出してもらった、己の卑怯さと厚顔さである。その自覚である。  いよいよ途方に暮れてしまった。ナナちゃんを起こす気にはもうなれないし、そうなると睦月は心に七歳の少女を持つ変わった男ではなくなり、つまりアジの興味の向くところではない。ただ布団にくるまり、取り返しのつかない恥の感情でうんうんとうなるしかなかった。  睦月のつまらないところは、うなり続けてそのまま死ぬだけの根気もないあたりで、うんうんするにもすぐに飽いてスマートフォンを手にとった。画面にはカイゼル髭の投稿した画像の一覧が開かれたままであり、それをなんとなく下に送って見ていくと、ふとスクロールの指が止まった。  見覚えのある塔が映されている。平和の森公園の平和の塔、否、像だ。  それから鳩のアップ。ポップコーンを持つ手。写り込んだ袖から、ジャケットを着込んでいるのが分かる。ブラウン地のグレンチェックに太いベージュの大きな格子が重なったジャケット。  ――顔のうちのひときわ目立つ部分に印象を引っ張られるのが人間というやつだから、髭さえ外してしまえば誰も顔を覚えていないと。だから人の印象に残りたくないときには髭を外すんだそうだ。  アジの言葉が蘇る。あのとき公園で鳩にポップコーンを投げつけていたのは、カイゼル髭だったのだ。なぜカイゼルがそんな行動を取ったのかが気になってきた。気になるように意識を向けた。するべきことが欲しかった。  鳩の画像が添付された投稿を見ると、『この日になると事件の現場を歩きたくなります』とある。  この日。  睦月とアジがただ日中暇だからと公園で過ごしたあの秋の日は、事件のあった日であった。バレエ教室を中心として地図に描かれた三つの大きさの円の、中くらいの円と一番大きな円の間に平和の森公園はあった。  『街は変わりますが、忘れてはいけない、諦めてはいけないと思う日々です。当時わたしは随分と勝手にコメントをし、物を知った気になり、事件報道の熱に浮かされて一人の少女の命運というものの重さを実感していなかった』ともある。  鳥から逃げ続けた睦月を、写真の鳩が見つめていた。まだ事件を忘れていない者がここにいる。それならば君がするべきことは何だ。鳩の目が語りかける。  ななのアカウントから、カイゼル髭にダイレクトメッセージを送ろう。彼はまだ情報を求めているのだから。睦月は決意した。  それが最善で、最速の償いであり救いである筈だ。彼は、今日まで情報を誰にも話せなかったこと、子供心に恐ろしくて事件の記憶を消し去ってしまっていたことをくどくどしく前置いて、駐車場から見た誘拐の場面についての情報を書き上げ、送信した。  晩になって、ようやく返信があった。彼はまず返信の遅れたことを簡潔にわびて文を切った。続くメッセージを待つ間に、誰やら分からない人間の撮った満月の写真にいいねを押した。 『情報のご提供ありがとうございます。黒のバンについては当方でも独自に把握しておりますが、ナンバー、犯人の特徴、会話内容などは覚えておられますか』  睦月に返信のしようは無かった。  無性に腹が立った。睦月の情報はまったくの無意味だと言われたも同然だった。  ベランダに出て、一服して次の手を考えることにした。小さな満月を眺めているうちに、無意味な投稿をしたくなり、写真に収める。  生理終わったと思ったらまたすぐ次くる。調子いい日実質一週間もないよね。(こういう話苦手なひとごめんね)(月に愚痴りたい)  なな@nana_19960423のアカウントから投稿すると、すぐにいいねが一つついた。  長い昼寝から目を覚ましたナナちゃんのお団子髪がほどかれている。燃えやすそうな化繊のもこもことしたパジャマに身を包み、あくびをしている。滝野愛加から分岐して、彼女は全く別の、なな26歳になっていた。
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