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 小会議スペースという名の、事務フロアからパーテーションで区切られているだけの場所で睦月は課長の怒声を受けていた。月二回の出社日のたびにお小言を頂戴しているので、その日も出社日の仕事のひとつ、というくらいの気持ちで聞いていた。  しかし耳の奥ではぎいぎいと奥歯の軋む音がする。歯ぎしりの音を唇から漏らしながら、これは止めた方がいいなあと思う。だが止めることは出来ない。歯を鳴らしているのは外形的には睦月だが、睦月に代わり身体的反応を引き起こしているのはナナちゃんである。 「睦月さあ、俺がしたいのは話し合いなんだよ。問題、タスクの解決に向けてどうこれから動けますか、っていう、前向きな提案を出し合いたいわけ。どうやったらウッカリを無くせますかと。仕組み的な問題があるなら洗ってみるとか、そういうのが俺の仕事なわけ」  課長があまりにつまらないことを言うものだから、あくびが出そうだ、という言葉が頭を掠めるが顎関節はナナちゃんが歯軋りに使っているので、これみよがしにあくびをすることも出来ない。頬を伝う水滴の感触に、課長が叱責の間に先のような御託を挟んだ理由が分かった。泣いていたのだ。  ナナちゃんは限界なのだ。課長の言葉が向けられているのは睦月にであるが、ナナちゃんは睦月が叱られているのが許せなくて泣いてくれているのだ。 「……やだ、ムツキにばっかり怒っておかしい! 嫌い!」  ナナちゃんがとうとう喋り始めてしまった。僕は大丈夫だから。泣かないでいいんだよ。心の中で慰めながら睦月は課長に説明をする。 「課長、大丈夫なんです僕。ちょっと言葉が出てきてしまったけど、これは僕に代わって喋っている子どもの声というか。普段はそんなこと無いんですよ。普段は彼女は喋らないんです。彼女はまだ子どもだから仕事というものが、課長のおっしゃっていることが、分からないんです。僕はありがたく受け取っておりますし、おっしゃることが尤もだと分かっております」  正気を示すために理路整然平滑流暢と喋りたいところだが、どうしても嗚咽が混じってしまう。  睦月を眺める課長の顔はおかしなものを見る目に変わった。 「どうもうまくいかないな、俺は今後の君のためにと思ってその、話し合いの場面を設けたわけだ。パワハラみたいなものとは違うんだけど、なんというか君は話し合いが出来る状況ではなさそうだし、あれだよ、総務に一度相談してみた方がいいように思うなあ。うん、仕事の問題もさ、症状の表れだったりするかもしれないし。俺は医者と違うから簡単には言えないけど。そうだな簡単には言えないから、今の一言は忘れて。とりあえず総務に話しとくから、な」  パーテーションに目をやりながら課長が言う。パーテーションの隙間から、この場の異様は漏れ出ているのだろうか。嗚咽は止まらない。生理現象だから仕方がない。ナナちゃんの気持ちの昂りが収まっていないということもある。  睦月の脳裏で、膝頭の存在を忘れさせる真っ直ぐ伸びた脚を力強く踏ん張ったナナちゃんが、中空の一点を凝視している。涙をこれ以上こぼすまいと下唇を噛んで耐えている。細い顎が震えていて、薄い眉の下に奥二重の目がある。その開いた部分のほとんどを大きな黒目が占めている。黒目は興奮で光り、彼女が悲しみではなく激しい怒りから泣いているのが分かる。髪を高い位置で一つのお団子にして、上はピンク色の薄手のナイロンジャンパー、下は水色のキュロット。スニーカーも水色で、黒のドット模様が一部に入っている。それから黒のリュックを背負っており、両側のポケットにそれぞれ大きな黒のリボンがついている。  かように顔も髪型も服装も持ち物までも明確に分かるというのに、彼女の名前だけははじめから分からない。七歳だからナナちゃんと呼ぶことにした。名前を提案したのは睦月だが、ナナちゃんも気に入っているようだ。彼女との付き合いは長く、小学一年生で不登校に片足をつっこんだ頃からだからかれこれ二十年近くになる。はじめは同い年だったナナちゃんを置いて睦月だけが成長したが、どんなときでもナナちゃんは姉のように励ましてくれた。そのナナちゃんがもう我慢ならないと、代わりに怒ってくれたのだから、課長のやり方はやはりパワハラにあたるのではないかと変に自信を持って睦月は総務部長と面談した。  その前に総務課長とも面談している。課長は元から笑ったような顔をしていて、ペイズリー柄のようなタレ目が左右対称につき、鼻は丸い。赤塚不二夫の漫画に出てきたような気がする、と普段向かい合うことのない総務課長の顔を、パーテーションではなくきちんと四方を壁に囲まれた小会議室で眺めている。いや藤子不二雄Aの方か、と思いながら眺めていると今度はシャツの下の乳首が浮いているのが気になってくる。ナナちゃんが、乳首乳首と囃すのでどんどんと目が離せなくなってくる。左右の乳首を交互に見つめながら上の空で受け答えをしていたところ、「まず一回受診してみて」と優しく言われ、指定医を紹介され、向かった先の精神科医は冗談のように鼻毛を出していて、バカボンのパパだ、とおかしくなりながらナナちゃんの話をし、薬と診断書を出された。  そうして得た診断書を前に総務部長と向かい合っている。一緒に薬の袋も出そうとしたら、「そっちはいいから」とやけに優しい声色で言われて引っ込めた。そうなのか、と思っていると、ナナちゃんが、当たり前だよ、と笑った。  恰幅のよい部長は脂っこい肌質をしていて、話すたびにグレーの不織布マスクが口にはりついてペコペコ動く。口呼吸なのだろうか。顔の上半分だけでも分かる脂っこく世俗的な笑顔は、いつかラーメン屋で見た貼られっぱなしのポスターカレンダーに居た七福神の布袋尊を思い出させた。  総務部長は速やかに休職を受け付け、振り返りもせず出ていった。
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