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「で、会社にナナちゃんがバレて、晴れて暇人になったわけだ」  笑いながらアジはかんぴょう巻きを頬張る。西新宿は思い出横丁の立ち食い寿司屋にて、先についていたアジは、かんぴょう巻きとガリサワーを頼んですでに一杯始めている。ナナちゃんの言う通りに、会おうよー、とメッセージを送ったところ、いいよー、とマイメロの絵文字をつけて返ってきた。 「学生はいいね、フットワークが軽くて」 「代わりに金は無いから隅っこでガリサワー飲んでるわけです。やあ、社会人が来たからには二杯目からはビールかなあ」  軽口を叩くアジを無視して、焼きゲソ握りとハイボールを頼む。睦月とてこれから休職生活に入ろうというわけで、そこまで金を使う気にもなれない。 「ナナちゃんにジュースでも頼まなくていいの」 「今まで気にしたこと無いだろ、お供え物みたいに置いとけってか」 「いじけるなって。にしてもナナちゃんのラインかわいいよな。俺いま合法的に小学生女子とラインしてるって思うし、街コン様々」  アジの言葉に後ろの、座り席のグループが一瞬会話を止める。  恥知らずのペド野郎が、と心のなかでうっかり悪態をつくと、ナナちゃんが、友達の悪口やめなよ、と窘めた。いやペド野郎にあまり懐いてはいけないよ。でもアジはなんにもできないじゃん。それはそうだよ、だってナナちゃんは出てこれないから。そう、わたしは出ていけない。  ナナちゃんの言葉に引っかかるものはあったが、保護者としてはこれ以上安心なことは無い。内に居る限り、事故にも事件にも合わないのだから。子どもは守られるべきなのだ。  おじさんくさいよ。ナナちゃんからそう言われて、返事の代わりに微笑んでみせてからハイボールを一口やった。    アジとは、昨年の夏に二十代限定を謳う街コンで出会った。睦月としては単純に彼女が欲しくて参加した。  街コンの会場であるバーの壁際に佇んでいる睦月に、大股に近づいてくる男が居た。顎までマスクを下げたままの顔がはっきりと見えるようになる。男は見れば見るほど明日には忘れていそうな相貌をしている。二十歳男性のモンタージュを大量に重ねていったらこの顔になるのだろうという顔で、それはつまり人に好かれる、整った顔だということだ。それなのにまるきり女性陣に目を向けられていないというのはつまり、カテゴリエラーだからだろうと睦月は判断した。胸には鮎川雅美(20)という名札がつけられていた。年が若すぎるし、見たところ学生だし、二十代限定じゃなくて学生限定の街コンに行けばいいのではないか。 「初めまして、アジです」  第一声がそれだったので、なるほどカテゴリエラーだけが原因では無さそうだと思っているうちに、隣に並ばれて、一緒に会場を眺める形になってしまった。アジってなに? 魚? この人ウケるね。違うよナナちゃん、こういう男はそうやっておかしな事を言って話題の糸口にしようとして滑ってるだけなんだよ。こういうときは無視してまともに返してやるのがいいんだ。 「睦月宗一です。鮎川さんは若いんですね、学生ですか」 「学生です。アジでいっすよ。名前、気恥ずかしいんで。鮎の川に雅で美しいって勘弁してくれって感じで。鮎とか食ったことないけど鯵は好きだし。フライもいいけど、実はつみれも好きなんですよ。鮎食ったことあります?」  言われてみれば鮎を食べる機会はあまりない。どうだったかと考えていると、ナナちゃんが、修学旅行! と叫んだ。そうだ、中学の修学旅行で熊本に行った時の宿が川の傍で、確かそのときに塩焼きが出たような気がする。 「修学旅行かあ。そういえばそんなんあったな」 「え、誰と話してんですか」  先程まで誰も傍にいないのをいいことに、ナナちゃんの言葉に小声で応答していた睦月は、ナナちゃん宛の言葉を口に出していた。 「いやすみません、こちらのことです。鮎は、食べました。中学の修学旅行で。味は覚えていません」 「鮎を食べたことがある! いやあ今日一番いい話を聞いた。ところで誰と話してたんですか」  塩ビタイル製の床をゴム製のスニーカーが擦る、耳障りな高い音がした。横に滑って移動したらしいアジの腕が肩に触れて、腕毛の存在を感じたところで睦月は背中を丸めてビールを啜った。プラスチックのカップに1センチ程残しておいたビールは、参加者として会場に居るためのものだった。彼女も出来そうにないし、おかしな男に絡まれるし、いい加減見切りをつけるべきだという判断だ。そもそももっと早く出るべきだった。ナナちゃんとの会話をなんだかんだで楽しんでしまっていたのが良くなかった。  アジは半分程残っていたビールを一気に呷り、濡れた口の端を隠すようにマスクを引き上げた。睦月の顔を覗き込んで「二軒目どうしましょうか」という有無を言わせぬ調子に反発したくなるが、一人寂しく出るよりもマシなような気がする。ナナちゃんがアジを気に入ったらしいことも背中を押した。そうして、思い出横丁の立ち飲み寿司屋で二次会をする流れになってしまった、という次第だ。 「今日の会場、ベロンベロンバーって、バカみたいな名前じゃん。入ってみたかったんだよね。元有名ホストが店長で店内ギラギラ、ホームページもギラギラ、高級ボトル持ってじゃんじゃん飲んでって感じの悪趣味。その中で動き続ける男と女。どんなもんか見たかった。学生向けのイベントは低価格が売りだから、ベロンベロンバーは使われていなかった」  彼女は求めて無いんすよ、俺わりとサイテーなんで。そう付け加えたアジは、そのときも思い出横町の立ち食い寿司屋でガリサワーを飲んでいた。  睦月は生ビールを頼んでいた。会場で最後に口にしたぬるいビールの味を上塗りしたかった。アジに、なんで学生向けの街コンにしなかったんだと軽く訊ねてみたところ、先のような理由にならない回答があった。特別興味もないがなんとなく振った話題に、嘘でも本当でもおかしいような答えが返ってきて、他人をどうでもよい気持ちにさせることで境界を作り出していた。  歌舞伎町の雑居ビルの中にあったバーは確かにそんな名前であったかもしれない。安くない会費を払って、そんな動機で参加するとは信じられなかった。  しかしコンパで女性と話しても、ナナちゃんからのダメ出しに振り回されて会話に集中出来ないでいるうちにどんどんと人が離れていき、壁際で参加者に辛口の評を飛ばし続けるナナちゃんの相手をしていた自分も大概おかしい。さらにそこで声をかけてきたおかしな奴に連れられて新宿西口まで着いてきてしまった自分はコンパにいたどの女子よりもチョロいのかもしれない。 「睦月さんこそ全然絡みに行ってなかったけど彼女探しじゃないんすか」 「真面目に誠実に探すつもりでしたよ。でも気が散っちゃって会話にならなかった」 「気が散るって、さっき話してた誰かと関係あります?」  ガリを噛んで笑うアジの口元から犬歯が覗く。笑顔は動物にとって威嚇の表情だ、というのを思い出しながら睦月もアジと正面から目を合わせて笑い返した。 「ナナちゃんだよ。七歳の女の子が頭の中に居るんです。あの女の人はいじわるそうだとか、あの人はぶりっ子だとか、この人もう飽きてるねとか、そんな風にうるさいんですよ。子どもってのは正直で厳しい」  アジが作り出した境界線の向こうで、思い切り歯をむき出しにしてみたらどうなるのかが気になった。 「てことは、ナナちゃんは二〇一四年生まれですか」  一瞬呆けた顔をしたアジだったが、どうやら酔った頭で引き算をしていたらしい。いいなあ、二〇一四年生まれのマジ女児といつでも頭ん中で話せるんだ、やべえな、霊系かと思ったけど頭ん中かあ、最強じゃん。そんなことをぶつぶつと繰り返しながら箸でサワーをかき混ぜて、沈んでは浮かぶガリに向けて二〇一四、二〇一四、と言い聞かせるアジを、気持ち悪い、と素直に思った。 「いいえ一九九六年生まれです。なぜなら二十五歳の僕が七歳のころから七歳のナナちゃんがいたから。残念でしたね」 「めちゃくちゃに合法!」 「いくら軍艦」  アジを無視して注文する。無性に腹が減っていた。彼女も出来そうにないし、立ち食いとはいえ寿司も久々だし、金を気にせず好きに数皿食って帰ろうというつもりになっていた。アジの存在はナナちゃんにとって良くない、という予感があった。私って一九九六年生まれだったんだあ。とナナちゃんがなぜか嬉しそうに言う。誕生日は分からないんだよねえ。そうだね、初めて出会ったのが夏休みの後だったけど、生まれた日は分からないね。そういえばそうだった、ムツキがずっと部屋にいたころだ、ねえ秋生まれってことにしない? 誕生日が分かればなあ、星座占い出来るのに。知らないよ、星座なんて。 「ナナちゃんは俺のことなんか言ってます?」 「なんも。……秋の星座ってなに? あの星占いとかのやつ。ナナちゃんが星座占いしたいんだって」 「何月何日生まれすか?」 「さあ、秋生まれになりたいみたいなんだけど」 「秋なら乙女、天秤、蠍あたりすかね。俺が乙女だから乙女座でいいんじゃないですか。八月二十三日から九月二十二日までに誕生日が絞れるし、しかも俺とオソロ」  夏休み明けから不登校になった睦月の前にナナちゃんが現れたのは、そのあたりの日だった。あのころのみじめな気分が蘇ってくる。無視しようと決めたのになぜこちらから弱点に繋がる話題を振ってしまうのだろう。  わあい、乙女座っていいね! アジくんありがとう! ああやっぱりやめようよナナちゃん。こいつ変な奴だし、七歳の女の子と喋ろうなんておかしいよ。すぐ星座が出てくるところもなんとも言えずキモいし。そうかなあ、でも教えてもらったお礼はちゃんと言ったほうがいいよ。 「乙女座喜んでるよ、ありがとうだって。良かったな」  軍艦をつかもうとしたら倒してしまい、いくらが皿の上に溢れた。せっかくの形を崩したことに気まずさを覚え、職人に見つかる前にと急いでかき集めて口に詰め込む。食べている間は会話をしなくていい。 「どこ住み? なんて聞かないですけど、ラインはやってます? 交換しましょうよ、ナナちゃんもラインしたいんじゃないすか」  軍艦を咀嚼しながら首を横に振ると、アジは唇を曲げて肩を上げてみせた。演技的な動きだった。 「睦月さんはナナちゃんのなんなんすか」  僕はナナちゃんのなんなんだろうねえ。できるだけ軽い調子で訊ねてみたが、ナナちゃんは喋ってくれなかった。そろそろ寝る時間なのかもしれない。睦月自身、アルコールが回ってきて眠くなってきていた。こういうとき、ナナちゃんとの会話はスローになる。  ねえナナちゃんこの変なお兄さんとメッセージのやりとりしたい? 今にも眠りそうにまぶたを重くするナナちゃんに聞くと、うん、と小さく返ってきた。 「いいよ、交換する。変なメッセージ送ってくるなよ」 「しないって。でもあんまり過保護なのもどうかと思うよ、だってナナちゃん俺より年上でしょ、生まれでいったら。ラインくらいさせてあげなきゃ。ナナちゃん宛のメッセージなんて今まで無かったんでしょ」  そりゃあ無いよ、だってこんなことを他人に言ったのも初めてで、だっておかしいのは分かってるし、信じられている今の状況が異様で、だから誕生日とかそういう余計な話にまでいっちゃって、都合が良くない。いや都合って言い方は良くなかったね、違うんだよ。  ナナちゃんの寝息がすうすうと耳の奥をくすぐるのを感じながら、睦月は誰ともなく言い訳をしていた。  スマートフォンの画面にQRコードを表示させたアジが、さっさと読み取れというように鼻先に突きつけてくる。 「それでもこの時間に眠くなるような、七歳の子どもなんだよ。子どもを守るのが大人の責任だよ」  QRコードを読み込みながら、睦月は力なく呟いた。       「本当に心配はしてるんだよ。今までナナちゃんが出てきちゃうことなんか無かったじゃん」  サワーの方ではない、かんぴょう巻きに添えられたガリを齧るアジがとうとつに真剣な顔をした。ムツキごめんね、とナナちゃんがここ数週間のあいだ繰り返していた言葉を発する。  睦月はというと、これをどう受け止めるか決めかねていたが、ナナちゃんが睦月を実行的手段で助けようと動いた、その結果の進化を責めることは出来ない。大丈夫だよ、ナナちゃんがあやまることないよ。だってムツキは隠したかったでしょ。でもナナちゃんのおかげでしばらくあの課長と会わなくて済むしね。私もあのおじさん嫌いだけどムツキは困らない? 多分困らないよ。これも繰り返してきたやりとりだ。 「ナナちゃんならきっとそうするんだよ」 「二十年近く一緒にいても分からないもんなの」 「ナナちゃんは僕とは別の人間なんだから分からないところだってあるだろ。全てを理解しあえるなんてのは幻想だよ」  ふうん、とアジが気の抜けた声を漏らした。目はカウンターの奥のお品書きに向けられていて、奥歯に挟まったなにかを探るように口が開いたり閉じたり、頬が膨らんだり凹んだりする。 「そのわりに、都合のいい幻想みたいに睦月のために動いてたのに。今までは」  私はいつでもムツキの味方だもん、当たり前だよ! 今度のはちょっと、 「ちょっと、我慢できなかったんだよね」  ナナちゃんとアジへの返事を兼ねてそう優しく告げると、アジがまた、ふうん、と答えた。
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