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初つぶやき。うまくいったかな。ななです、よろしくね。
なな@nana_19960423の初めての投稿だった。
「業者感すごいな」
アカウントの初期登録から投稿までを隣で指示していたアジが笑う。アイコン画像は アイコン フリー かわいい で検索して出てきたねずみ耳をつけた女子のイラストにした。一九九六年生まれということだけが分かっているナナちゃんが、ねずみどし生まれだから、と選んだ絵だ。
「だって僕もナナちゃんもツイッターなんかやったことないし、何書けばいいか分からないよねえ」
タイムラインにはゲームのスクリーンショット画面や、料理画像、ファッショントレンドニュース、アイドルの新曲MV、映画の感想、美術館併設カフェの展示期間限定スイーツ情報、などが表示されている。
初期設定時に興味のあるトピックを選ぶ段階があり、睦月としては面倒で飛ばしたいところだったがひとつひとつナナちゃんに確認して、いくつかを選んだ。ナナちゃんは食べ物に興味あるの? おいしいものを知りたいし見たいの。ポケモンが好きだからゲームも。あとバレエってなにになるの? バレエ? 踊る方の? エンターテイメント、かな。アートかも。じゃあ両方とも選んで。
結果としてまだどのアカウントもフォローしていない状態でも、タイムラインは賑やかだ。
海外のバレエ団の動画が回ってくる。『ドン・キホーテ』とある。自動再生された動画の中では、どんな仕組みなのか人間が膝を伸ばしたまま軽やかに跳び、軸をぶらさず回転する。中心にいる男女がおそらくメインキャストなのだろう。赤い扇を持った女は、上は黒で下が赤の衣装を纏っている。赤の唐傘みたいなスカートはチュチュというのだとどうしてか睦月は知っていた。
ナナちゃんはさっそくその画面の美しさに夢中になった。ねえこれもっと見たい、もっとないの?
「こういうのいっぱい見たいってナナちゃんが言ってるんだけど、どうしたらいいの」
「これ劇団のアカウントだからこの劇団をフォローしたらいいんじゃない。この丸いとこ、アイコンを押して、アカウントのホームに行く。そうするとフォローってボタンが出てくるから、なんかおじいちゃんに教えてるみたいだ俺」
平和の像を背にして、かげりはじめた空の下で男二人がスマートフォンを覗き込んでこちゃこちゃとやっているのは不思議な光景かもしれない。レースが終わったとみえて、機嫌よさげに公園に立ち入った輩が露骨に二人を避けて階段に腰掛けた後、数分で立ち去った。別の男女が不自然な動線でやけに近くを通って手元を覗き込んで、戻っていった。止まっている二人の周りで人が漂い流れていく。
鳩を集めていた男は、二人がスマートフォンと格闘を始める前に立ち去っていた。鳩たちも銘々に飛び去っていた。例の――と個体を識別してしまったのが悔しいが――鳩は暫く行ったり来たりした後に、他の鳩同様に埃っぽい羽根を残して飛んでいった。
鳩がそれぞれに飛び立つ瞬間を睦月は余さず見送った。鳥の羽ばたく様を見るとき、耳元で突然着信音がなったようなショックがあり、律儀に都度どきりとした。体を震わせ、目をしばたかせる。全ての鳩を見送るまで心臓を酷使し続けた。
最後の一羽、個体識別してしまった鳩を見送ると、睦月はやっと落ち着いた。鳥の羽ばたく形は恐ろしいが、実際に見るとイメージほど恐ろしくはない。形のイメージに脅かされ続けている。次こそはぴったりの形の鳥に出会ってしまうのではないかという恐怖を抱きながら睦月は鳥を見る。
とにかく目下の恐怖から解放された、という安堵からナナちゃんの求めについ応じてしまった。
私もツイッターやってみたい。そうなんだね。じゃあアジに聞いてあげるよ。
そんな次第でナナちゃんは、ななとしてツイッターを開始した。
「『ドン・キホーテ』ってなんか英雄? だっけ? 店のドンキの方しかしらないけど。この男が主役なの?」
手元を覗き込みながらアジが訊ねる。
「バレエの『ドン・キホーテ』の主役はキトリ、この赤いチュチュの女の人だよ」
「へえ。よく知ってんね、詳しいの?」
「さあ、なんで知ってるのか知らない」
本当に分からなかった。
劇団のアカウントをフォローしたところ、おすすめのアカウントをまとめてフォローしろ、というようなボタンが出て、反射的にそのボタンを押していた。
ナナちゃんが小道具の扇子を取り出して、キトリのポーズを取ってみせる。どう? きれいでしょ? すごく上手だね。本番のお衣装を着たらもっときれいなんだよ。本番? 発表会のことだよ。
ナナちゃんはバレエを習っていたの? と聞きそうになり、やめた。ナナちゃんはずっと睦月と共にいたのだからバレエを習っていたナナちゃんなどは存在しようがないのだった。タイムラインに子ども向けバレエ教室の話題が流れていく。きっとこれを見て、子どもの豊かな想像力でごっこ遊びをしているに違いなかった。
なな@nana_19960423はフォローバックと呼ばれるフォローのお返しフォローと、出会い目的らしき男性からのフォローにより、ひとつきのうちに二桁のフォロワーを獲得していた。適当に決めたIDに睦月の生年月日が入っているために、26歳女性と外からは見えるのだろう。現在地も馬鹿正直に新宿区としたために、新宿区在住26歳女性が正確か。
ナナちゃんの年齢で登録するわけにもいかないため、初期登録時の生年月日も睦月のものを入力している。ランダムに表示されるアカウントは、26歳女性が好みそうなアカウントとしてAIが勧めてくるものだ。ナナちゃんはおよそ興味を抱かないのではと思える、美容アカウントやら、男女格差の是正に言及するアカウントやらが表示され、無視しようとするとナナちゃんが、いまの何? 知りたい、と入ってくる。
ナナちゃんは睦月の目を通して、26歳のななに向けて発信される情報を吸収していった。画面をスクロールする指先に合わせて流れていく情報は、文字のかたちで頭の内側を跳ねて回る。頭蓋に沿って立ち並ぶコール・ドは種々のアイコンで、それらもてんでバラバラのようでいて、なんらかの意味を見るものに見出させようという動きをして、中心の文字たちを華やかに盛り上げている。
よくもアジはこんなものを楽しめるものだと思う。アジはこの百倍ちかくの量の文字列を浴びている。たしかに、自分が動かず周囲が動き回るという状況に違いないが、あふれる情報に気まぐれに身を浸して、のぼせる前にあがるなどという芸当を身につけるのは睦月には到底難しいように感じた。
頭痛を覚えはじめていた睦月だが、ナナちゃんはスクロールを止めさせてくれない。
狭いベランダにしゃがみ込み、自分を燻すようにしながら煙草の煙を吐く。スマートフォンから目を離す言い訳でもあった。ななのフォロワーは少しずつではあるが順調に増えていた。
ほらナナちゃん、今日はなんでもない月が出てるよ。あと二日くらいで下弦の月になるような中途半端な月が出てる。あれでも撮ってツイートすればいいんじゃないの。
ナナちゃんの答えを待つほんの少しの間があった。視界の隅に違和感を捉えた。捉えたのは睦月でありナナちゃんである。二者は同時に気づいた。右肩に触れるか触れないかのところにある室外機、の下の影。影の一部が濃い飴色になっている。
睦月は煙草を消すと、そうっとベランダから部屋へと戻り、音の立たぬよう注意して窓を閉め、三歩でキッチンに辿り着き、害虫用のスプレーを手にし、気配を消してベランダに戻った。
濃い飴色は動かずそこに居たが、こちらの動向をうかがっているのが気配として感じられた。
ほら、ゴキブリと目は合うんだよ。
ナナちゃんの言葉を合図として、スプレーのジェット噴射攻撃が行われた。三秒間の噴射で室外機周辺はすっかりと湿り、粘膜を刺激する成分とハーブ臭がそこいらじゅうに漂う。かの虫は一旦室外機裏に逃げ込んだと見えたので、今度は壁と室外機の間にノズルを差し込みまた三秒間噴射してやる。虫の居場所を探るのに目を見開こうとするも、眼球の周りの筋肉が勝手に目を閉じんとする。
後ろだ、と振り向くと中腰になった睦月のサンダルのかかとから数センチ離れたところに息を潜めて虫がかたまっている。視線というものを確かに感じた。虫はもはや虫の息だろうと思われるが、ここで派手に動いて刺激した結果、トリッキーな反応をされたらたまらない。すり足で方向を転換し、平時から油を塗ったように光っているであろう虫の背が殺虫剤の液でびたびたになるまでスプレーを噴射した。虫はもはや動かなくなった。
目が合うって感覚がよく分かったよ。
五重にしたティッシュで虫の死骸をつまみながら睦月が話しかけると、アジが言ってたみたいにツイートしようよ、ツイッターってそういうところなんでしょ、とナナちゃんから返ってくる。
ゴキブリを見るとき、ゴキブリもまたこちらを見つめているのだ。
ナナちゃんの指示により、ツイートを投稿した。新宿区在住26歳女性ななは、そういう感性らしい。
よくこんな言葉知ってたね、これって深淵を覗くときに深淵もこっちを覗いてる的なやつでしょ。
そうそれ、ツイッターで見たよ。だから使ったの、ツイッターっぽいでしょ。ナナちゃんは誇らしげだ。
よく分からないよ。そう答えながら睦月はゴキブリのせいで落ち着いて吸えなかった一本を取り戻すように煙草に火をつけた。もう子どもは寝る時間だよ。はあい。おやすみ。おやすみなさい、いい夜を。
すぐに寝息が聞こえてきて、それを確認してから睦月は通知を知らせて震えていたスマートフォンを開いた。コメントがついている。
――見てるよねあいつら。
――自分で退治したの?
――深淵を除く者は…ね
彼女のツイートは正解だったようだ。睦月には、ツイッターっぽいというのがどういうものか、まだ分かりそうもないが、ナナちゃんの適応の早さに驚いている。まったく良しにつけ悪しきにつけ、子どもとは染まりやすいものであるからして、ナナちゃんのツイッター利用にあたっては自分がフィルターの役割を果たさねばならないと改めて感じる。その使命の重さたるや。子どもの健全な成長のために、手を尽くすのが大人としての良識、分別、思慮、なんでもいいが社会的に正しいことである。
成長。
ナナちゃんは七歳のままだ。成長しない子どもを自分の中に住まわせ続けるというのは、世間一般からすると許されないのではないか。だからこそ診断がおり、薬を処方されたのではないか。二週に一度通院しているのではないか。
薬を飲んでもナナちゃんは平気の平左衛門で睦月の中に居続けるのであって、診断はだから誤診だと思っている。しかしそれはそれとして、睦月自身がなんらかの罪を犯しているような気持ちになった。療養という名の島流しにあっているのかもしれないと。
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