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 島流しにあったのはナナちゃんをきちんと育てていない罪からだろう。子どもは発達段階において適切な社会の影響を受けながら健やかに過ごし、成長しなければならないはずである。七歳の秋に出会ってから、一緒にあらゆることを経験してきた。様々なものを見てきた。ナナちゃんが健やかに過ごしてきたというのは、睦月の保障するところであるが、成長することはなかった。本当のナナちゃんは26歳の女性のはずで、SNSのななが本来あるべきナナちゃんの姿なのかもしれない。しかし睦月にはどうしようもなかった。  日が落ちるのが早くなり、気付けば斜向いの低層マンションのひと部屋の窓の内側に、イルミネーションライトらしきものが飾られている。まだ昼なので光の消えているそれは蔦植物のようだ。寒々しい気分でそれを眺めた後、ベッドに横になった。どうすれば罪が許されるのかが分からないうちは、思うさま暇を持て余すしかないのが実際だ。  同様にナナちゃんも暇を持て余している。昨日フリース素材のカバーに替えたばかりの掛け布団に埋もれながら、睦月と一緒にツイッターを眺めている。いまや三桁をフォローしているタイムラインは、暇を潰すにはちょうどよい。はじめは肝硬変になるまで給餌されるガチョウの気分で情報を飲まされていた睦月だが、この頃は適当に吐き出して捨てる技を身に着けていた。情報が体内に吸収されるまえに「乗れる意見」だけリツイートしておく。  タイムラインはひとつの思想に集約されつつある。  今日の勝ち馬話題は、生理用ナプキンのひとつひとつに励ましのメッセージが印刷されていてうざったい、余計なお世話である、ということらしい。睦月からするとそこまで苛立つことか、と疑問であるが、まあ生理中の女性は怒りっぽくなるというからな、と納得しかけたところで、そういうのが女性を舐めてるって怒ってるんじゃないの、みんな、と聞こえてきた。  布団のなかに、あるはずのない他人の気配がある。布団を捲くるも、そこには自分の脚が投げ出されているだけだ。足の甲のところがむくんで見えるのは運動不足からだろうか、と眺めていると、布団にこもった空気に生臭いものが混じっていることに気づいた。どこかで嗅いだ記憶がある、布団のなかで蒸された生き物の臭い。実家にいた犬の仔犬のころの臭いだろうか。天に向けてさらけ出された腹の、薄い皮膚のしたに詰まった糞と血液の臭いを思い出す。しかし仔犬は布団に入るほどおとなしいものではなかった。  なんだったか、と思案しながら布団から這い出し、カップうどんのビニールをやぶったところで思い出した。出汁の香り漂う部屋の、布団の中で自分は嗅いだのだ。  こたつ机の上に食い終えた鍋をそのままにして、彼女はだるいと言ってベッドに入った。無理しなくて良かったのに、と言うと、金ローのナウシカ見ながら鍋しようって誘ったのあたしだし、楽しみにはしてたんだよ、と返ってきた。壁に沿って置かれたシングルベッドで、彼女は壁にはりつくようにして身体を横たえていて、睦月の場所を空けてくれていた。大学生のころだった。付き合っていた彼女と、背中合わせにならんで眠ったあの夜に、布団にこもる生臭いにおいを嗅いだ。  カップうどんを放置して、再び自分の布団に頭を突っ込む。  新宿区在住26歳のななはきっと今生理なのだろうと思った。経血の気配は成長の気配だ。  ちょっと夕寝をしようよ、僕は目が疲れた。頭もね。うどんを食べ終えてナナちゃんに提案する。  じゃああと一回タイムラインを更新してよ。  そう請われて更新を行うと、顎に手をあてた『著者近影』めいたきどった初老の男のアイコンが流れてきた。なながフォローしている誰かが、この男の発言や良し、ということでリツイートしたらしい。アカウントの名前欄には、本名らしき名前の横に犯罪心理学研究者と肩書らしきものが書かれている。らしきらしきと続くのは、ネットではなんとも自称が可能だからである。  事実、拡散されてきた彼のツイートは最近話題の海外映画についての評論であったし、それが人間の多様性や人種・性別間の不均衡を是正すべき昨今の正しき言説に結び付けて語られているとはいっても、犯罪心理学研究者とやらでなくても書けそうなものである。  しかしリツイート数は四桁に達してなお増え続けているし、26歳アート好き女性ななのタイムラインでも概ね好意的に受け取られているようであった。  ナナちゃんは興味深げにその空気を見守ってはいたが、睦月としてはいつものこととして飽いている。話題を移しつつも底を流れるものは同じだ。それよりも、男のアイコンが気になっていた。直径にして5ミリ程度の円の中に写された斜め左向きの横顔は、顎をあげて視線をかなたにやっている。円の中心には、明治時代の軍人か文豪かといったカイゼル髭が堂々と写り込んでいた。  鼓動が早まる。酸素が薄い。吸うのにも吐くのにも喉につっかかるものがある。寝起きにニコチンを摂取したときのような、ぐわんと脳の揺れる感じがあり、睦月ははじめベッドに俯せに、それからすぐに仰向けになった。白の天井を薄く照らす窓からの陽がやけに眩しく映り、掛け布団を顔に掛けた。もう経血の臭いは消えていた。  眠ってしまいたい衝動を抑えて、睦月は初めて自分の意思でアジにメッセージを送った。 『夜ヒマなら飯行こう。暇じゃなければ明日でもいい。明日の朝でも昼でも夜でもいい』  どうにかそれだけ送ってスマートフォンを投げ出すと、ナナちゃんの心配の声を遠くに聴きながら、睦月は目を閉じて何も考えないよう努めた。  アジはその日の夜にすぐつかまった。  睦月から誘った手前、アジのアパートから近い中華系のファミリーレストランで待ち合わせることになった。先に着席していたアジがとりあえずの一杯として紹興酒を二人分と棒々鶏を注文しており、着席そうそうに乾杯を促されてやけくそでぐいぐい飲む。軽く汗をかくほどの早足で来た睦月の喉は全く潤わなかった。 「僕が鳥嫌いなのは知ってるだろ」  グラスを置いて睦月がつぶやくと、アジは「うんうんうんうん」と極めて軽い調子でうなずいた。 「あれさあ、鳥自体っていうか、飛ぶ形がさ、変な髭を思い出すから嫌いなんだよ。男用のトイレのマークでたまにあるやつ、分かる? カイゼル髭」 「ああしゃらくさいカフェとかにあるな」  水が飲みたかったが、ドリンクバーまで取りに行かないとならない。目の前の紹興酒は喉をゆっくりと焼きながら降りていくだけだということが分かっている。睦月は舌で唇を湿らせて続けた。 「レンタカー屋であのトイレマークに出会ったときは、不意打ちすぎて漏らすところだった。レンタカー屋がおしゃれぶったトイレマークを使うなよ」 「どうしたのそのときは」  トイレの話を出したのは睦月だが、本題から逸れそうなのでアジの質問は無視することにした。 「とにかく嫌いなんだよ。なのにカイゼル髭の、変なおっさんのアカウントがさあ、リツイートされてななのタイムラインに流れてきてた」 「へえ、漏らした?」 「本屋行くとうんこしたくなるみたいな話じゃない。カイゼルのせいで動機息切れ頭痛が止まらなくて寝込んだ。そんな中でなんとかお前にラインを送った」 「ならお見舞いにでも行った方が良かったか」とあくまで茶化す様子で言うが、一旦そのまま話を受け取ろうとするアジは稀有な友人だ。 「カイゼル髭が怖いのはあくまでお前なんだよな。ナナちゃんは鳥も嫌いじゃないし、カイゼル髭も多分なんともないんだろ。なんでカイゼル髭なんてもんがピンポイントでだめなんだよ」  睦月が黙り込むと、アジは水をとりにドリンクバーに向かった。ついでにアルコールのメニューを差し出してくれるあたり、気が利いているといえばいえる。  軽々にアジは訊ねるが、理由を考えるのは怖い。小さなアイコンを見ただけで不定愁訴の見本市といった体たらくで、件の犯罪心理学研究者とやらのホームに飛んでみることすら出来なかったのだ。 「やっぱりツイッターなんかするんじゃなかったよ」  戻ってきたアジに、睦月はそうこぼした。 「そうしたら本物のカイゼル髭をつけた人間の写真なんか見ることは無かったんだ。それらしい時代のものは漫画でも映画でも避けてきたのに、問答無用で目に入ってきたんだ。なんだあのシステム。もう止めたいよ」 「それがツイッターなんだから仕方ないだろ。大体俺は睦月にじゃなくて、ナナちゃんに勧めたんだ。実際それでナナちゃんは楽しんでんだから横から見ているお前がどうこういう話じゃない。髭の問題はお前の問題なんだからお前がどうにかすることだよ。愚痴を聞くくらいは出来るけど、今のナナちゃんから情報を奪うのは宜しくない。ななアカウントは続けさせてやりなよ」 「指し箸するな。はいはい、正論。大体にしてななのタイムラインは正論尽くで面白くないんだよ。お前のやってるように何がなんだか分からない言葉がタイムラインに流れていく方がよっぽどいいって初めて思った」 「あれは教育にはよくないよお」  注文用のタブレットで紹興酒のデキャンタを選択しようとするアジの手を止めて、梅酒サワーを選択する。しゅわしゅわするものならばなんでもよかった。 「今からさあ、カイゼルのホーム見に行って代わりに何者だか解説してくれない? それからそいつを見えなくしてほしい」 「それはいいけど、そいつをブロックしたところでお前の問題は解決しないからな。まあ解決したところでナナちゃんが消えちゃうと困るんだけど。JSと会話できなくなるし。ていうか今ナナちゃん居るの?」 「寝てるよ、もう夜だもの」 「会社の飲み会には連れて行くくせにな」  アジは明確に非難めいた色を滲ませて言った。やはり自分はナナちゃんの健全な生育に関しての何らかの罪を犯しているのだろうという思いを深め、睦月はテーブルに広げられたドリンクメニューに突っ伏した。    カイゼル髭のアカウントのホーム画面と、ついでにウィキペディアを確認してくれたアジの解説するところによると、件の髭はかつてテレビにもコメンテーターとしてよく出演していた犯罪心理学者で、著作も何冊か出版しているという。そのうちの一冊、『邪悪とはなにか――異分子はあなたの内にある――』という最近出版された新書もなかなかの売れ行きだという。ネットでの活動も目立ち、ツイッターのフォロワーは二十万人を越えているらしく、そうなるとやはりブロックは正解だと言える。いつどんな話題であの恐ろしい髭の人物の画像を再び見ることになるのか分からないからだ。 「それから髭は、ずっと付け髭なんだと。顔のうちのひときわ目立つ部分に印象を引っ張られるのが人間というやつだから、髭さえ外してしまえば誰も顔を覚えていないと。だから人の印象に残りたくないときには髭を外すんだそうだ」  とアジはつまらなさそうに付け加えた。 『あなたはあなたの心の全てを知っていますか』との煽りが印刷された、真っ赤な帯を巻かれたその本を睦月は書店で見かけたことがある。 「まあ髭の問題これで済んだとして、ナナちゃんにはもう裁量を与えてやったらどうなの」  睦月の手のひらに身体を預けきっているスマートフォンの画面をつついて、アジが言った。結局注文されたデキャンタの紹興酒を手酌で飲むアジからは、すえた匂いが絶えず漂ってくる。 「例えばななのアカウントはナナちゃんのものでもあるんだから、こういう場では起きていてもらうとかさ。SNSではナナちゃんに言葉を渡してみるとかさ。文字で打つとなると睦月の編集を通すわけだから、声を明け渡すのがいい」 「そんなの、声帯は僕のものだからおかしいだろ」 「今はボイスチェンジャーってのがある。アプリもあるし、ツイッターにもはじめから機能としてついてる。投稿するときにマイクのアイコンが出るだろ、そこを押せば音声を配信できる。スペースっていう。もちろん他の人の配信の場に入ってみてもいい」  とにかくナナちゃんの自由にさせてみることだよ、と言うアジの目は、ペド野郎のくせにえらく真剣だった。  アジのアドバイスに従うのは甚だ癪であるが、もしナナちゃんに裁量というやつを認めたならばいわゆる良き大人、理解ある保護者に近づけるのだろうか、知らずに犯した罪の償いになるのだろうかと考えると、それくらいはやってみてもよかろうという気になってきた。睦月自身、ナナちゃんへの対応に迷っていたところだった。    ナナちゃんは喋ってみたいかい。  翌朝気持ちよく目を覚ましたナナちゃんに、睦月は訊ねてみた。  私はずっと喋ってるけど。といつものお団子頭に手をやってナナちゃんは答える。寝起きだろうが、きっちりとまとめられたお団子は崩れることがない。  いや、この前課長に喋ったみたいに、僕の声を使うかいって聞いてるんだよ。もし喋りたいなら、ツイッターでななとして喋ってもいいよ。  聞きかじりのボイスチェンジャーというやつの説明をしてみると、ナナちゃんは俄然その気になった。すぐにでもやりたいと言うのを抑えようとして、ナナちゃんの自主性というやつをまたぞろ押し込めようとしている自分に気づき、舵取りの塩梅も分からないまま睦月はナナちゃんに声を明け渡したのだった。  ナナちゃんは意外なほど落ち着いて喋った。いつの間にか豊富な語彙を獲得しており、26歳女性として不自然さは無かった。  なな@nana_19960423としての交流により、ナナちゃんは今までの停止の分を取り戻す早さで成長しているらしい。豆苗みたいだ、とはじめ微笑ましく見ていた睦月も、それではいつも睦月と会話しているナナちゃんの七歳児らしさとは何なのかと考えると、その茎葉を刈り取らねばならないような気がしてきている。細かい髭根に絡まる無数の豆から伸びる黄緑が、陽光を追って頭を傾ぐさまを思い浮かべる。ナナちゃんを導く陽光は何なのか。  ナナちゃんが他人のスペースにも参加するようになったある日、ななは、女性漫画家のスペースで発言をした。はじめはリスナーとして聴いていただけだったが、女児の連れ去り未遂の話題が出たところで発言権のリクエストを送信し、許可されたのだ。  ショッピングモールで連れ去られそうになっていた女児を機転を効かせて救った、というバズツイートを発端にその日の夕方のタイムラインは各人が似たような経験を語っていた。 「いまだに未解決で捜索中の子もいますもんね。子どもの安全というものが保障されていないのが悔しいよね」  漫画家が言う。ナナちゃんが言葉を用意しているのが分かるが、何を言おうとしているのか検討がつかない。嫌な予感があった。 「十九年前の女の子の失踪事件とかもそうですね。小学一年生の、なんだっけ、名前」  ナナちゃんが睦月を振り返って問う。 「たきのまなか」  その六文字を発した後、睦月は言葉にならない叫びとともにマイクをオフにした。会話の場から退出した後も、たきのまなかの名前が自分の内から出てきたことに動揺が収まらず、ハッハッとわざと音を立てて息を吐いて、自分はいま正常ではないのだということを意識して演じてみることで衝撃を逃がそうとした。  ナナちゃんでもななでも無く、睦月宗一の記憶のなかに「たきのまなか」はあった。  髪を高い位置で一つのお団子にして、上はピンク色の薄手のナイロンジャンパー、下は水色のキュロット。スニーカーも水色で、黒のドット模様が一部に入っている。それから黒のリュックを背負っており、両側のポケットにそれぞれ大きな黒のリボンがついている。  たきのまなかの失踪時の服装で、捜索用のビラに書かれていた文言だ。テレビでも繰り返し流れた。たきのまなかさん、小学一年生、通っていたバレエ教室を午後七時に出てから帰宅の途中で行方不明に。  あのとき、睦月はそこまで詳しく服装を見られなかった。真っ直ぐな白い脚が、黒っぽいバンに吸い込まれているのを見た。
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