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 滝野愛加の行方不明事件について、当初、警察は誘拐事件として捜査はしていなかった。  テレビでは彼女の失踪時の服装と、バレエ教室周辺地図が毎日のように報道されて、コメンテーターが難しい顔を作っては、「早く見つかると良いですね」と誰でも言えることを言う。  一週間も経つ頃には世間的にいよいよ誘拐を疑うムードが出来上がりつつあった。現場からの中継が行われている。中継アナウンサーが教室のある低層ビルの前に立ち、周辺は閑静な住宅街で、有事の際に駆け込める店舗等はないだろうとの言を述べる。住宅の他には町工場や小さな事務所も多く、七時ともなればそれらの建物から人気は無くなるのではないか、との推測を向けられた首から下だけを映された近隣住民がそれを肯定する。静かで住みやすい街なんですがね、と困惑のなかに興奮を隠して語る住民の着るナイロンジャンパーのスポーツメーカー名にモザイクがかかっている。番組の広告提供社との兼ね合いがあるのであろう。それはテレビ局にとって大変に気を使うポイントだ。  住宅街を抜けた先の大通りを渡ればすぐに彼女の家だという。大通りから先に少女を攫う場所があるとは思いにくい、との中継アナウンサーの言に合わせて夜間の映像に切り替わる。大通り沿いは飲食店やゲームセンター・パチンコ屋の類が建ち並び、人足が途絶えることは無い。  教室から彼女の家まで、子どもの足にして二十分程という道のりを歩くアナウンサーは、やはり住宅街の辺りの細い道は樹々も多く鬱蒼とした雰囲気がありますね、と先程の住民インタビューで足りたことを繰り返す。  無論、彼女の家の近くになれば画面にはモザイクもかかるが、土地勘のある人間からすればどの辺りなのか検討はつくだろう。事実、ニュースを見ていた睦月の母親が「この子の家、駅裏のマンションが並んでる辺りだね。マンションの子かな、ああこのドアはそうだわ。そこのお教室行ってたんなら、ちょっと遠くから通ってたんだね。そうちゃんも気をつけないと。あんた最近帰り遅いことあるし、うちの近くに怖い人が居て子どもをさらったかもしれないってことだよ」と呟くころには、アナウンサーはインターホン越しに彼女の母親からコメントをとろうとしていた。確かにカメラに映るドアは集合住宅のそれだった。 「家の前の公園だし、いつもじゃないじゃん」 「そりゃ窓から見えるけどね、でもしばらくは保育園のあとの外遊びは無しね。ママはそうちゃんが居なくなっちゃったら、すごく悲しいし辛いんだから」  そう言う母親が急に喉をつまらせて抱きしめてくるので、彼女はいま彼女に不幸がふりかからなかったことに涙しているのだなと睦月は理解した。ママが不幸でないなら良いことだなあ、と思うと胸にくくっと空気が上がってきて、僕居なくならないよ、と縋り付いて泣いた。  バレエ教室を指して母親が「そこのお教室」というのは、教室が睦月の家のすぐ近くだからだ。教室の裏に小さな公園があり、その公園は睦月の家に燐している。この辺りは狭い公園が多く、遊具もろくにないところも珍しくない中で、睦月の家の隣は一応は滑り台とブランコと前後に揺れるパンダとうさぎを備えているだけ公園としては「上」の方だ。やたらと高い金網に囲われて、実際以上に圧迫感を感じるのが瑕だが、車とバイクが一度ずつ金網に突っ込むのを見ているのでやむ無しである。狭い一方通行の道ばかりのわりに、事故が多い地域ではある。  それに広すぎる公園では、きっとあの子とは出会えなかっただろう。母親が夕食の支度に忙しくする時間帯、保育園から帰った睦月は家の隣ならばという許しを得て、他の子どもたちの気配の消えた公園で遊具を独り占めする。日中は園で集団生活を送っている分、ひとりでブランコを漕いだり、ひたすらに滑り台を滑っては登りを繰り返して妄想に遊んだ。そんな睦月に声をかけてきた一歳上の少女がまなかだった。  たきのまなか、という名前の背の高い少女は週に一度睦月と薄暗がりの公園で遊ぶようになった。時計の長い針が4になったら帰らないと、というまなかに、二十分でしょ! 僕はもう時計分かるよ! と反発してみせたら、すごいねえと笑って額を撫でてくれた。年上ぶるまなかの手を払ってから、たきのまなかという名前が特別わくわくした響きを持つようになった。  そのたきのまなかが「滝野愛加」というモザイク模様みたいな文字になって、連日報道されている。家の隣の公園の高い金網の柵にも貼り紙が貼られ、それが雨に打たれるのがキッチンのシンクの前にある横長の窓から見える。まだ足踏み台に立たないと蛇口に手の届かない睦月は、日に何度も手を洗うようにして貼り紙を眺めた。水気を吸ってうねる紙が、荒い印刷のまなかの笑顔をやつれたように見せていた。  睦月は、まなかと知り合いだと人に知れることが恐ろしかった。  行方不明になったあの日も、まなかは睦月と公園で遊んだ。今度発表会があって、オーディションがあるんだけど絶対に主役になりたいの。そう言って少女は街灯の下で両手を頭上に掲げて、左足をすいと後ろに伸ばしてみせた。糸に吊られたように真っ直ぐと立ちポーズをとるまなかは、前歯が全て見えるのではないかというほど口を大きく横に開き、舞台用の笑顔を作っていた。ぜんたいとして人形めいていて、それ怖いからやだよ、と睦月は言った。びっくりさせちゃったね、とまなかはすぐにポーズを解くと、まだ時計の長い針が2のうちに公園を出てしまった。  ブランコに座り漕ぎ出すも、十五回も漕がないうちに、自分はまなかにひどい意地悪を言ったような気がしてきた。嫌われてしまったらどうしようか。来週までこのまま会えないのはひどくもやもやする。いや、来週からもしかしたら来てくれなくなるかもしれない。睦月は公園の出口から前の道へと飛び出すと、左方向へと駆けた。その先の道をどう歩いてまなかが帰っているのかは分からない。横道を見つけて左へ左へ入るうちに公園の周りをただ周っているだけになってしまっていることに気づき、道の向こうの細道に入ってみる。  時間制の駐車場が目に入った。「空」の字は読めるんだよ、と考えながら赤いランプで描かれた空の字の下を駆けたときだった。街灯と街灯の明かりの輪の間に車体を半分隠すようにして黒っぽいバンが停まっていた。スライドドアが開いていて、男が何か押し込んでいる。押し殺した声で会話を交わしている気配があり、大人が複数人居ることが分かった。ただならぬ気配に、防衛本能から体が勝手に動いた。ブロック塀の陰にしゃがみこんで隠れる瞬間、バンのドアの隙間から白くて長い脚と見慣れたスニーカーが覗いた気がした。  車は暗がりにうずくまる睦月の目の前を通っていった。後ろの窓にはスモークがかけられているが、運転する男の横顔は見える。マスクをつけてキャップを被った男の、白目がやけに脂っこく光っていた。車が通り過ぎてからも暫く、睦月は動けなかった。手足の先が冷えてたまらず、スニーカーの下の砂利の感覚とともにアスファルトに溜められた湿気のようなものが這い上がってきていた。  当時は防犯カメラの設置も少なかったが、時間制駐車場にはカメラが設置されていた。カメラ映像を当然警察は押収・確認しているだろうというコメントがテレビから聞こえてきたのは、洗いすぎによって睦月の指の股が赤く荒れ始めたころだった。  テレビにはおかしな髭をたたえた中年の男が映っていた。  子ども番組で見かけたマジシャンや、絵本に出てきた王様の家臣みたいな髭だ、と思っていると、その髭の男はカメラの検証がどうとか、当日彼女が別のルートをとった可能性だとか、そもそもの帰宅時刻がいつも二〜三十分遅れていたそうだから寄る場所があったのではないかとか、そうであるならば聞き込みの範囲をどこまで広げるべきであるかとか、そういったことを髭を動かしながら滔々と語るのである。  彼の後ろのモニターには地図が映され、バレエ教室を中心として三つの大きさの円が描かれている。その一番内側の円のところに、睦月の家はあった。すぐにでも髭の男が、警察を連れて家に来るような気がした。テレビ画面の向こうでは髭の男はなおも語り続けようとしている。 「なにしろ、今回の件は警察の初動に疑問がありますね」  男がそう発言したところで、耐えきれなくなりテレビを消した。隣室で父親が見ている時代劇の音が、居間のテレビの音に紛れられなくなって、所在無げに浮遊していた。壁のどこかの隙間からキッチンの窓や換気扇に向けて、冷たい空気が流れていく。  たきのまなかは滝野愛加になり、行方不明の小学一年生になり、雨にうたれた貼り紙になり、駐車場のカメラに映ったかもしれない目撃者の知る白い脚になり、髭の男はそれを追い詰める。以来睦月はニュース番組を嫌がるようになり、代わりに何でもいいからアニメの映画をレンタルしてくるよう父親にねだるようになった。キッチンで手を洗わなくなった。たきのまなかのことを忘れた。
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