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睦月宗一は鳥が嫌いだ。
飛んでいるときの鳥の形が恐ろしいのだ。飛んでいないときはどうかというと、より恐ろしい。羽根を畳んで不恰好に地面を移動しているときも、身体に羽ばたきの可能性を秘めているからだ。可能性というものには際限がない。睦月の頭のなかで鳥は実体よりも大きくおぞましい姿をとる。
前方かなたに居る鳩も、私ほんとうはもっと恐ろしいものですよ、いつだって飛び立てるのですよ、という瞳で世界を見ているに違いない。
完全に意識の外に置くことは出来ない。かなたの鳩は挙動があやしい。こちらに来る予感がある。嫌な予感は当たるものだ、こと鳥に関しては。と睦月はこれまでの経験から知っている。
睦月と友人のアジは、東京都は平和島にある競艇場に隣する公園に居た。北から南東へと伸びる縦長の公園で、人体に例えたならば腰にあたる部分を環状七号線により切断されている。切断された公園の頭のあたりに、公園のシンボルである平和の像――というより塔なのだが、名称は像だ――があり、その手前に半円状になだらかな階段が設けられている。その段に腰を掛けると像に背を向けて広場を眺める形になる。睦月とアジもそうして座っていた。
広場は人工的に植えられた広葉樹に囲まれている。樹々は第一京浜道路、環状七号線、首都高速に囲まれた街区の騒々しさから公園の公園的な聖性を守るべく、手を繋いで壁となっている。
鳩たちは広場中程、計算されたランダムさで植えられたうちの一本の樹の下に座るグレーヘアの男を囲んでいる。男は二人より先に公園にいた。ハンチング帽から覗く襟足は長く、きっちり着こまれたジャケットはブラウン地のグレンチェックに太いベージュの大きな格子が重なっていて、秋の景色によく映えていた。ウール製らしきズボンには皺もない。その紳士的コードに沿った服装と、軽く下手投げをしていたかと思えば、上半身だけ遠投の姿勢をとって気まぐれに遠くに投げる姿がちぐはぐであった。それにノーマスクだ。アジと睦月が現れる前には誰も居なかったであろう広場ではあるが、もはやマスクは、世間一般のコードに合わせられますよというポーズであって、それを放棄している紳士という矛盾があった。
公園の広場に足を踏み入れてすぐ、睦月は男を見とがめて、隣のアジに言った。
「餌やりは条例違反だ。罰金五千円だっての」
「詳しいな。アンチほど熱心なファンってやつじゃん」
「施行日にさあ、餌やり禁止記念日として祝ったんだ」
「ナナちゃんと?」
そうそう、一緒にケンタ食べたね。ナナちゃんが割り込んでくる。
ナナの言葉を仲介してやると、アジは、なるほどケンタも鳥だよね、と優しい声で返す。二人は不自然にならない程度に男と鳩の作るコミュニティを迂回して敷地の奥の平和の像の前に来たのだった。
今年の夏も酷暑であった。夏の盛りを避けて三ヶ月ぶりに訪れたのが今日である。それなのに、男がわざわざ鳩を集めている。忌々しい、と舌打ちが出る。
この公園を気に入っている最大の理由は、鳩が少ないからである。鳩が少ないのはここがカラスの勢力圏であるからだ。カラスは休日にピクニックもどきをする親子を狙う。または、レースの結果に浮かれてだろうか、競艇場で買った唐揚げを片手に、ちょいと緑豊かな公園を散歩でもしてみようと気まぐれに吸い寄せられて来る人間を狙う。カラスは賢く、休日に人が集まることを知っている。平日もレースのまさに行われている時間帯ではなく、レースとレースの合間の時間を狙う。
つまり曜日と時間を選べばカラスも鳩も公園には寄り付かないのであり、鳥恐怖症たる睦月にとってこれほど都合が良いことはない。それに実家から近いため土地勘もある。
アジは睦月の鳥嫌いを知っているので、睦月の選んだ公園に付き合ってくれている。東京湾に張り出す人工島である平和島は、睦月の住む新宿区からも遠いのだが、アジの住む杉並区からも同様に行き辛い。睦月は睦月の都合で行くからいいのである。アジはというと、断ってもいいはずなのだが、移動含みで楽しんでいるからいいのだという。少なくとも、当人はそう言っている。どうせ暇なときにしか付き合わないので時間が潰れるならその方がよいし、ただ電車に揺られて移動しているのが愉快であるらしい。車内で立つ、または座っているだけで、景色も乗客もアジの周りで動き続けるのがよいという。
アジは視覚情報過多の状態に身を置くのが好きで、SNSでも二千人以上をフォローしている。
誰かをフォローすればフォローバックされることもある。アジはアカウント作成時から、フォローを返されたら即座にブロックして、アジのアカウントをフォローするアカウント、所謂フォロワーの数を0のまま保つという方針でツイッターを運用している。その結果フォロー二千人超えにフォロワー数0という偏ったアカウントが出来上がり、フォローだけを日々増やし続けている。それが異様に映るのだろう、最近はフォローバックされることも少なくなり、手間が減ったということだ。
「なにが楽しいんだか分からないな」
「流れていくのを眺めるだけだよ。何時だって気が向いたときに開けばそこで誰かが呟いてる。更新するたびに新しい呟きが流れてくる。その状態にするためにフォローし続けていくと二千越えた。でも俺は見られたくないの、俺はクソだから」
「僕がアカウント作ったとしたらフォローすんの?」
「睦月はあんまり呟いてくれなさそうだから、アカウントとして価値薄いな。ナナちゃんなら考えてもいい」
「七歳児がやるかよ」
「やるんじゃない?」
そんな話をしながら、ただ広場を眺める。腰は落ち着いたが気持ちは鳩に囚われたままだ。
先程から目を合わせている鳩は男の作る群がりの外れにいて、そこまでポップコーンが届きもしないのに、なんとなく周りに合わせて地面をつつき、それに飽いた、もしくはここにいてはポップコーンは得られないと覚った鳩だ。それでいて輪の中心に行く気概もない鳩だ。
睦月もアジも、食べ物は持っていない。睦月はホットのほうじ茶を、アジは紙コップのカフェオレを、カイロ代わりに持っているだけだ。来るな、見るな、ホットほうじ茶を鳩にぶちまける不審者にはまだなりたくない。
そうしているうちに鳩の目を見てしまった。鳩は睦月たちを見ていた。
鳩の瞳を縁どる赤色から目が離せない。
ゴキブリもこういうときある。とナナちゃんが話し始めた。ゴキブリを見つけたときって、ゴキブリも絶対こっち見てるんだよ。
「ゴキブリと目が合ったことある?」
睦月が訊ねると、アジは「あるある」と返しながらカフェオレのプラスチックの蓋を外した。
ほら、アジも言ってる。ゴキブリは分かるんだよ、わたしに見られてるのが。それでずっとにらみ合うの。
そうだね、と心のなかで返事しながらも睦月は鳩と見つめ合っている。
「ゴキブリと目が合う話なんかツイッターって感じするよ。ナナちゃんやってみたらいいじゃん」
「ツイッターってそんな話ばっかりなのか」
「そうでもないけど、そういう部分もある」
おかしいね、でもムツキとアジ以外の人とも喋れたら楽しいなあ。ナナちゃんが遠慮がちに呟く。
ナナちゃんは滅多なことでは睦月の口を借りない。だから睦月はずっとナナちゃんの言葉を心のなかで受け止めるだけで済んだ。アジに対しても、睦月が通訳する形で会話を進める。
ナナちゃんが睦月の声を借り、身体反応を引き起こしたのは、休職に繋がったあの一件だけだった。
課長に対して、ナナちゃんの言葉がそのまま睦月の口から出た。睦月の意思を介さず唇が動いた。
今までは睦月の心のなかで、あのおじさん嫌い、とか、ムツキが気にすることないじゃん、とかただ励まし続けてくれていただけだ。次からちゃんとやればいいよ。失敗は成功の母だっていうでしょ。あのおじさんお腹へってイライラしてたんじゃない? あとは昨日ママと喧嘩したとか。
そんなことを七歳児に言われる課長は実際家庭がうまく行っていないらしく、酔うとたびたび朝から焼き魚の匂いをさせる近所の家の悪口になるのだった。
「あそこの家の親父は朝から鮭焼いてもらってんのかよ、って思うんだよ」
とげっぷ混じりに管を巻くのを、ナナちゃんはダサ、と聞き、睦月が「はあ」と返す。そんな小さな人間にも見くびられ、実際仕事でミスばかりである自分の情けなさを改めて実感させられるので、課長の近所にあるという朝から魚を焼く家がトースト派になるとよいと、課長の管巻きがはじまるたびに思う。
「朝はパンが一番ですよ」
と返してみたこともあるが、なぜか猛烈な怒りを買ってしまった上に、同僚からもあれは良くないと窘められてしまったので、以来「はあ」と返すしか無かった。
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