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「桜は嫌いだ」
老いた庭師はそう言って、額の汗をタオルで拭った。
その目の前には、満開の薄紅を纏った数本の木が誇らしげに立っている。今は老いた庭師がまだ駆け出しだった頃に植えられたものだという。
だからそれらは彼の庭師人生を共に歩んできた木々であるのだが。それでも庭師は僕に『嫌いだ』という。
『何故嫌いなのか』と、僕は問うた。
およそ今まで桜が嫌いだと明言する人間を、僕は知らなかったから。これほどまでに美しい花を咲かせる木を、何故。それも彼は庭師として木と生きることを生業にしているにも関わらず。
普通に考えれば、僕ら以上に桜を愛していると思ったのだが。それに何より……。
だが老いた庭師は僕の問いかけに小さく首を横に振り、庭仕事用の小さな椅子に座りながらこう続けた。
「庭師にとって桜は、手間が掛かる厄介者なのだ」と。
「綺麗な花を満開に咲かせるためには大量の栄養が要るんだ。しかしここは土地が狭い。なのでどうしても土が『痩せる』。だから毎年肥料をやらなけばならん」
自然の山や川岸に咲くのではないのだ。人工的に整備された庭の木はどうしても栄養不足になり易い。すると、花がちらほらとしか咲かないのだという。
「花が咲くのは僅かな間。その後はあっと言う間に花弁が散る。それが庭を汚す。排水溝を詰まらせる。それもソメイヨシノは園芸種だから全てが同じタイミングでだ」
僕らにとって『美しい』花吹雪も、彼には掃除の大変さが勝るのだろう。
「そして次は毛虫の駆除だ。桜の毛虫は毒が強い。消毒しないと近寄ることすら危ない」
毛虫も生き残りを賭けているから何とか消毒薬を逃れようとする。簡単にはいなくなってくれない。
「やっと虫がいなくなったら剪定だ。暑すぎず、寒くもない時期に、枝を払ってやらねばならん」
元気のいい木はそれだけ早く成長するから、下手をすると大きくなり過ぎてしまうのだという。すると、隣の木から栄養を奪ってしまう。
「それも単に切り詰めればいいって話じゃあない。この木をどう伸ばすべきか。その10年後、20年後を想像して剪定してやらなきゃならん。『今目立つから』ではなく、もっと先を見据えてハサミを入れてやらなきゃならん。頭を使うんだよ」
今は小さな芽でしかないものに、大きくなった姿を投影して『最終型』を想像するのだ。それは、途轍もなく気の長い作業と想像力を要するだろう。
「それから落葉。何時までも何時までも葉が落ちる。掃除にキリがない。桜はそうして年中、手が掛かるんだ。だから、オレは桜が嫌いだ」
そう言われれば、分からなくもない。庭師として手が掛からない木の方が好きなのは否定できまい。では何故と、僕は問い掛ける。『それでも長年手を掛け続けるのは何故か』と。あくまで『庭』なのだ。そこまで嫌悪するなら伐採し、他の樹木に植え替えてもよかろうに。
すると、老いた庭師は少し考えてからこう言った。
「桜は手が掛かるし、思い通りには育たない。虫も集るし、樹齢が増せば病気にもなりやすい。でもなあ」
目尻の皺が、ふと深くなった。
「それがオレの居場所なんだよ」
ふふ、と意味ありげな笑みを浮かべる。
「囲碁や将棋の対戦相手と同じでさ。憎くて厄介なヤツだけれど、そいつがオレに居場所を与え、オレに学びをくれるのさ」
庭師はゆっくりと立ち上って、僕を桜の根元へ呼び寄せた。
「ここに、腐った木が地面から顔を出しているだろう? これはな、この木が若かったころに立てた添え木の痕なんだ」
園芸種のソメイヨシノは全て接ぎ苗で作られるから、植えたてはどれもひょろひょろ。それでは折角植えても台風や大雨で倒れてしまう。だから添え木で支えてやらなけばならない。
「だがこの木はもう十分に大きい。自立できる。だから添え木はもういらない」
その腰に下がる、年季の入ったハサミの持ち手が太陽に鈍く光った。
「……オレもあと何年、こいつの相手をしてやれるか知らんがね」
そう言い残し、やや猫背気味の庭師は午後の作業へと戻っていった。
完
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