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スポットライト
人生の終わり、最後にひとつの行動が許されるとしたら、何をしたい?
真っ暗な舞台の上、君に問われて、僕は考える。
大抵の場合、死というものは突然に訪れる。あるいは、自分に死が訪れることが分かっていても、その時にはもう自由に動きまわる力が残されていないこともある。
もし、タイミングも体力も環境も何もかもを無視して、いよいよ命が終わろうとするときにひとつの行動が許されるとしたら、人は何をしたがるものなのだろう。
「美味しいものを食べに行く、とか。好きな人に会いに行く、とか」
正解は何なのか。正解なんてない、と君は言う。正解なんてないのだから、自由に考えればいいのだと。でも、自由にと言われると余計に難しく思えてくる。僕は僕の人生の最後に、一体なにをしたいだろう。
「じゃあ、想像してみて。あなたの人生は、一篇の小説なの。あなたは主人公。小説の最後を、どういうエピソードで締めくくりたい?」
僕の人生が、小説? だとしたら、随分悪趣味な小説だ。
物語というのは、出来事によって紡がれる。登場人物の身に何か出来事が起こり、登場人物はそれに対して何か行動を起こし、その過程や結末を見せるのが物語だ。僕の身には、何事も起こらなかった。
僕の生まれた家庭は、平穏だった。特別貧しくもなく、平均より豊かでもない。両親は普通に仲が良かった。僕は問題のない子供だった。普通に勉強をして、落ちこぼれることもなければ周囲より秀でることもなかった。良くも悪くも目立たなかった。怒られることはあまりなく、褒められることもそんなになかった。僕は普通に進学し、普通に就職した。何事も起こらなかった。
僕の人生は、正解だっただろうか?
「だから、正解なんてないんだってば」
本当に? 君はそう言ってくれるけれど、僕は、僕の人生は正解ではなかったと思う。君が言ったように、僕の人生が一篇の小説だったとしたら、僕はきっと最後まで読み切れずに放りだしてしまうだろう。
何の起伏もない人生。何の面白みもない物語。起伏も面白みもないから、最後をどう締めくくりたいと言われても、何も思いつかない。そしてこの男は、何事も起こらない普通の人生を、何事もなく終えましたとさ。めでたしめでたし。それでいいじゃないか。もう、それで。
「それでいいなら、それでいいと思うけど」
じゃあ、もう放っておいてくれ。君はなんだって、こんなところまで来て、僕に説教しているんだ。君と僕は、そんなに深い関係でもないだろう。中学生のとき、クラスが一緒だった。隣の席になって、図書室でも何度か顔を合わせて、同じ本を借りたこともあって、でもそれだけだ。それだけだっただろう?
「それだけだったね。本当に、それだけだった……」
でも僕は覚えているよ。君は信じられないくらい細い髪をしていた。あんまり細いものだから、日の光が当たると、明るい茶色に見えたんだっけ。それで、髪を染めているんじゃないかって、先生に目をつけられたこともあった。
「そうそう。あの時は……」
あの時は、たしか、親まで呼ばれて大騒ぎになったんだっけ。髪の色ひとつで、なにもあそこまで大ごとにしなくても良いのにって、僕は思ってた。
「そうだね。思ってた」
それから、君は学芸会で劇の照明係を任された。僕は舞台美術係だった。舞台美術なんて言っても、中学生の演劇なんてお遊びみたいなものだったから、美術というよりただの工作だったけれど。でも僕は、舞台に立って演劇をするなんてとても無理だったから、裏方に任命されて内心でほっとしてた。君もそうだった?
「そうだったかも」
君は舞台のクライマックスで、主役の女子にスポットライトを当てるはずだったのに、それをすっかり忘れてた。
「うん。緊張してたんだ。それで、あの子、怒っちゃった」
ずっと頑張って練習してたから。それを台無しにされたって思ったんだろうね。すごく怒って、君を責めた。照明係なんて地味だから、適当にやってたんだろうとか。本当は舞台に立ちたかったのに裏方にされたから、主役の子を僻んでわざとやったんだろうとか。君は色々なことを言われて、僕は、でも僕は、君はそんな子じゃないと知っていた。君は本当に一生懸命やったし、それでも、失敗してしまった。
「私は、」
君は、自分を責めた。中学生活最後のイベントで、みんなの思い出を台無しにしてしまったことを、悔やんで、悔やんで、そして。
「人生の終わり、最後にひとつの行動が許されるとしたら、何をしたい?」
分からない。
「私は、好きな人に会いに行った」
君は、僕に会いに来た。
「私の人生が、一篇の小説だったとして」
君は、そういう最後を選んだ。
「でも、これ、嘘だよ。ごめんね」
別に、謝らなくてもいい。君の言葉が全部嘘だってことくらい、僕にも分かっている。君の言葉は、全部僕が作り出した妄想だ。都合の良い解釈、希望、願望、僕が僕を慰めるための妄想。
君が僕をどう思っていたかなんて、本当は知らない。でもあの日、君が僕に会いに来たことだけは本当だ。放課後、図書室で本を読む僕に、次は何の本を借りるつもりなのかと聞いた。僕は、君と話しているところをクラスメイトに見られたくなくて、早く話を切り上げたくて、「分からない」と答えた。君は「そっか」と笑って、そして「さよなら」と言った。
本当は、次に何の本を借りるのか決めていた。ずっと読んでいるシリーズ小説の続きが出たから、次はそれを借りようと思っていた。君もそれを借りるだろうと思っていた。でも僕は、分からないと言った。君と話したくなかったから。君と話して、君を嫌っている人たちに目をつけられて、それで僕の人生に何事かが起こってしまうのが、怖かったから。
何事も起こらない普通の人生? 違う、何事も起こさなかっただけだ。息を潜めて、君を踏み台にして、僕は僕の人生を平坦にした。
そしてこの男は、何事も起こらない普通の人生を、何事もなく終えましたとさ。めでたしめでたし。違う、何事かを起こすべきだった。僕は僕の物語を始めるべきだった。それを拒んだのは僕だ。そして、自分で物語を拒んだくせに、妄想の君を作り出して、勝手に罪悪感から逃れようとしている。
「でもそういうものだと思うな。人生って」
間違いだらけ?
「うん、後悔だらけ。それなのに、物語はずっと続いていく。ずっとずっと……この先もずっと」
ばちん。スポットライトが灯るように、僕は覚醒した。目を見開くと、六畳一間の薄暗い部屋が、海底のごとく静まり返っている。長い春休みも今日で終わり、明日からまた大学の講義が始まる。あれ、違う。僕はもう社会人だ。寝起きで頭がぼうっとしているらしい。
ばちん。またスポットライトが灯る。僕は覚醒した。真っ白な部屋が広がっている。僕はベッドの上にいて、揺れるカーテンをじっと見ている。消毒液の匂いが鼻をくすぐる。身動きが取れない。体中が痛い。
人生の終わり、最後にひとつの行動が許されるとしたら、何をしたい?
耳元で、僕の妄想が囁いた。僕は、君に会いに行きたい。会って、あのシリーズ小説の続きが出たから、次はこれを読むよって言いたい。だから君も読んで、感想を話そう。長いシリーズ小説だから、続きが出たらまた読もう。物語がちゃんと終わるまで、最後まで読もう。
君に会いに行きたかった。でも、物語はまだ続く。後悔だらけなのに、ずっと、この先もずっと、続いていく。
午後の光が僕を照らす。あの日失敗したスポットライトよりずっと眩しく、僕を照らしている。
<おわり>
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