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「奥様、本当にいいんですか?」
佐々木はライターを手に尋ねた。
庭の真ん中には大きな金属のボール、その中にはノートが一冊。横には水の入ったバケツを置いてもらった。
あとは燃やすだけなのに、怖気づいたのか。
「赤根先生の最後に書かれたものですよ」
この一年、夫はずっと病院にいた。最初は転んで骨折での入院だったが、すぐに色々な病気が見つかり、やがて、その苦しさから逃れるように痴呆が始まった。
「話を書く。これは面白くなるぞ」
そう言うから、ノートを渡したが、亡くなった後に読んでみると、酷すぎて、笑うしかなかった。
それでも、最後だからこそ、ずっと赤根の編集を担当してきた佐々木に見せたのだ。
「読まれたなら、おわかりでしょう。小説とはとても言えないような支離滅裂な言葉を。最後の文豪とまで呼ばれた赤根の恥になります。すみません、佐々木さんにはご負担でしたね。私がやります」
あんな駄文を赤根の遺作にするわけにはいかない。
私は手のひらを差し出した。
その上に佐々木がライターを載せる。
私が昔、洋司にプレゼントしたジッポのライター。私は煙草を取り出して、火をつける。お棺に入れる時、一本だけ残しておいた煙草だ。
ひさしぶりの味にむせそうになった。
「さようなら」
私は煙草をノートの上に落とした。ノートの表紙の中心に茶色く焦げが広がり、そして、燃え出した。薄い白い煙が濃くなっていく。私の口紅がついた煙草のフィルターも炎にのまれた。
じっと、見つめていると、佐々木がささやくように言った。
「本当に先生のことを愛されてるんですね」
私は微笑む。
「ええ、赤根陣を私は誰よりも愛しています」
そう、夫の島村洋司ではなく、作家の赤根陣を。
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