谷間に咲く海の夢

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「ミオトは?」 「木の方にいるわ」    食料品を収納していたレゼルは、相変わらず開け放してある玄関からの声に答えて、外へ出た。手元の真新しい杖にほんの一瞬、カージュが視線を送った。目を見ていないと気づけなかっただろう。 「荷物、ありがとうね。この杖も。前のはぐらついてたけど、これならしっかり歩ける。……ちょっと遠くまででも行けるかも」  ふうんと一言、カージュは老木を眺め回っていたミオトに合図を送った。靴先が乱れたリズムを刻んでいる。  今朝までの自分なら、機嫌が悪いのだと気後れするだけだったに違いない。けれど今は、不機嫌は一つの可能性に過ぎないと知っている。別の可能性だってあるのだ、ミオトの想像に従うなら――。 「……遠くに行くのか?」  そう、不安、だとか。  頬が緩んだのを問いかけへの肯定と取ったようで、カージュが「そうかよ」と眉間に深い皺を寄せた。あまりに想像どおりの発言をするから、笑いを堪えかねただけだったのに。  彼の中のレゼルはまだ、老木が嫌いで、人魚になるために海へ行きたがっていて、それを嗤った彼とは仲違いしている。だから遠くへ行くのかと問われて笑みを見せたなら、そのレゼルは海へ行こうと決めた、ということになる。  自分の思うとおりにしか物事は見られない、ミオトの言ったとおりだった。彼を連れて来た時点で、カージュは多少、覚悟を決めていたのだろう。それで今日、新しい杖を持って来たのだ。私が青年と旅立っても、困らないように。   「お待たせ。お迎えありがとう。レゼル、お別れだ。元気でね」 「うん。私、これからいろんなこと、想像してみるね。一つ希望が潰えても、一つ新たな希望を抱いて、生きていけるように。そして、あの岩壁の文字の外にある物語も――『可能性』も、堂々と語れる花守になるわ」 「それが伝え広められて、いつか僕の耳にも届くかもしれないね。その源泉を辿った先でまた君に会えたとしたら、僕にとってそれ以上の再会の仕方はないな」 「……何の話をしてたんだ?」 「目から鱗が落ちるような話、かな。さて、帰ろう。村を出る前に今日のことを記録したいんだ」    ミオトは迎えを置いて歩いていった。「海から来た者が新たな土地に根付いて加護を得る物語、村の創始者は移民かな? 生活の安定と守護者を求める心の表れ、ここに桜がある理由……やっぱり人魚」わざとらしい独り言が遠くなる。 「目から鱗って?」 「見え方が変わる、ってことかしら。行かないの?」  「おまえは?」    彼はまだ不安らしい。こっそりミオトを追いかけると思われているようだ。いつまでも気を揉ませては気の毒だが、彼ばかりが望む返答を得るのも不公平だから、レゼルはとりあえず今日の彼だけを安心させることにした。 「彼と一緒には行かないわよ」  それを聞くや否や、「ふうん」もなしでカージュは駆けて行った。彼を追っていく風と花びら。鱗が落ちた目とやらで、その色がどう見えるようになったのか、教えなかった自分は意地悪だとレゼルは苦笑する。  けれど私にも、彼の口から聞きたい言葉がある。だから今しばらく、彼の中の私には、谷の人魚を嫌いなままでいてもらおう。  我慢の利かない彼が、荷物もないのに訪ねて来る明日が容易に想像できたので、レゼルは昼食ついでに焼き菓子も作ることにして、片づけ途中の台所に向かった。
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