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聞き慣れた荷車の音が、空想の甘く苦い煙霧を晴らした。少女は我に返り、日の位置がまだほぼ動いていないのを確かめる。
集落へ続く急な坂から現れたのは、予想していたほどの多でもなく、荷車の引き手だけの個でもなかった。レゼルは安堵する。二。丁度いいい数だ。カージュと一対一でなく、かつ騒がしくない。
村長の孫のカージュは、村で唯一の同年だ。集落から離れたこの花守代々の家に、食品や日用品を届ける役割を担う父親に伴われ、幼い頃からよくここへ来ていた。遊び相手といえば彼だった。人魚に戻る夢を打ち明けてしまった、あの日までは。彼は「最初の花守の子孫なんて嘘だ、おまえはただの人間だ」と一蹴し、喧嘩の末の腹立ち紛れに、レゼルの頼りの杖を折った。それから長らく、顔を合わせることはなかった。
今年十七になり、彼が父の仕事を継いだのを機に再会したのだが、未だに過去を引きずっているらしく、いくら感謝を示そうとも、引き結ばれた唇は綻ばない。世襲制のせいとはいえ、嫌いな相手の世話を焼かされるのは苦痛だろう。苦い思い出と負い目とで、レゼルもまた彼が苦手だった。
その彼に半歩遅れて、知らない青年が歩いてくる。真昼の影より黒い髪。村では見ない色だ。相手の会釈に応じつつ、レゼルは杖に手を伸ばしたが、「座ってろ」という抑揚のない声に遮られた。
「カージュ、おはよう。そちらは?」
「旅の人。昨日来て、家に泊めてた。昔話が好きで、聞き集めてるんだと。谷の人魚の話をしたら、実物を見たいって言うから連れて来た。昼には迎えにくる」
早口に喋った少年は、責務は果たしたとばかりに踵を返す。そして勝手知ったる様子で玄関から荷物を運び入れ、家主に礼を言う暇も与えず、空の荷車と共に帰ってしまった。
滞在時間の最短記録。そしてこの一対一は予想外。困惑するレゼルの隣で、青年がくすりと笑う。
「彼、とても親切だったんだよ。でも村からここまで道が斜めになればなるほど、機嫌も斜めになってさ。素晴らしく簡潔なご紹介に与りました、ミオトです。よろしくね」
気さくな調子にほっとして、レゼルは青年に隣に座ってくれるよう頼んだ。
「私はレゼル。喪中で待たせてしまったのね、ごめんなさい」
「とんでもない。なのに村長が気を遣って、『人魚』を貸切にしてくれたんだ。彼は羨ましかったんだろうね」
私に会いたくなかっただけ、とは言わなかった。客人に聞かせる話でもない。
青年は昔話が彫られた岩壁を眺め、花吹雪を浴びて嬉しそうだった。洗濯用の盥についた花びらを一枚手に取り、指先で皺を伸ばす。
「うん、濡れて透けると確かに、魚の鱗にも似てる。谷の人魚か、感動したよ。花にも、物語にも。この花は好きだけど、散る様だけはいかにも無常で苦手だったんだ。けどここに来て美しいと思えるようになった。思い人に届けるために、本来散らない花を自ら散らしている、だったね。昨日聞いたんだ。いいね、そういう目で見れば、桜の散る運命も虚しいばかりじゃない。まさか故郷を遠く離れて、こんな捉え方が身に着くなんて」
花びらをひらと落とし、感慨深げに目で追う青年。その情熱と理知の共存する印象的な声音で発せられた言葉に、レゼルの鼓動が早くなる。
「あなたの故郷には、これと同じ木があるの? それを桜、と呼ぶの?」
「そうだよ。小さな島国でね、桜はたくさんある。それらの花も全部散ってしまうけど、谷の人魚同様、理由があってのことなのかも。昔話の青年のように、災禍に追われた民のためとかね。彼は僕と同郷だったりして。それで彼が見たかっただろうものが、この目に――こういうの駄目なんだ、泣きそう。人に、花守になった人魚は、子孫を残したのかな? 君の中に彼女の血が今も流れているなら、彼女を守った青年はさぞ、喜ぶだろうねえ」
レゼルも、悲しみの融解とは違う涙が零れそうだった。熱心に伝承と向き合うあまり、大昔の青年と同調している様子のミオトと同じく、少女も想像の中だけにあった世界が現実味を帯びて、自分に重なるのを感じていた。
だからミオトが「久しぶりに故郷に帰りたくなった」と呟いたとき、自然と言葉が漏れた。
「私も帰りたい――海に。元の姿に戻りたい」
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