谷間に咲く海の夢

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 青年は短い文句の裏を読む能力に長けているらしかった。杖を指さして首を傾げる彼に、少女は素直に頷いた。   「尾鰭が君の希望なんだ」 「唯一の、ね。気を悪くせずに聞いて。私この木を好きになれないの。これを生かそうとしなければ、人魚は人魚のままで、子孫の私は生まれなかったでしょう」 「生まれなければ悩みもないか。でもそうすると、君のご先祖様も皆、生まれてこられないね。それを君が望むとは思えないけどな」    青年につられ、竿に揺れる喪服に目をやる。言われてみればそうだ。祖母は花守の生活を楽しんでいた。幼い花盗人を追いかけ、雪や嵐で枝が折れれば薬を作り、望む者に昔話を聞かせて、いつも笑っていた。その幸せまで無にはしたくない。  だが考えを改めても、谷の人魚への嫌悪感は変わらない。もう思い当たる理由はないというのに。    俯くレゼルに、青年の焦った声がかかる。   「ごめん、君を否定する気はないんだ。でも心配はしてる。ねえ、僕はこの村を出たら、一度故郷に帰ろうと思う。島国だから船旅だ。つまり海へ行く。君も一緒に来る? 皆には花守として、桜の勉強をしてくるとでも言ってさ。足のことは平気だよ、僕が支えるし、街道まで行けば馬車もある」 「え?」  思わぬ申し出に驚いての声ではない。むしろ、ぜひと即答しない自分が信じられない。  自在に動く尾鰭をつけた自分を思うときだけは、胸が弾み、未来が明るく見えた。なのにいざ海へ行く機会を掴むと、脳裏を(よぎ)ったのは――カージュと喧嘩をして杖を折られた日の、心細さだった。  ミオトを疑いたくはないが、旅の荷に加えて、自分の面倒をみる余裕はあるのだろうか。彼に途中で見捨てられたら、見知らぬ土地で立ち往生だ。  それに、無事に旅を終えたとして、万が一海が元の姿に戻してくれなかったら――幼い日に言われたように、自分がただの人間だったとしたら――その先、どんな希望を頼りに生きて行けばいい?    返事に窮し、ただ青年の顔を見つめると、彼はどこか安心したような微笑を浮かべた。   「君は賢明だね、好機に目を眩ませなかった。君を心配してると言ったのはね、希望がたった一つと聞いたからだよ。何にでも不測の事態はつきものだ。唯一の希望が叶わなかったら、どうやって再び立ち上がる?」 「でも、ほかにないもの。私の支えは、ほかに何も」    海へは行きたい、けれど望みが潰えるのが怖くて動けない。それでは一生、現状を変えられない。変えなくても生きてはいけるが、いずれ絶望感が胸を満たし、自分を溺れさせるだろう。嫌いな木の下、離れたいと願った陸の上で。  震える肩を、青年が軽く叩いた。花びらが落ちる。傷ついた人魚から剥がれていった鱗のように。   「伝承の青年と僕との共通点が、まだあった。実は僕も、故郷を追われて出て来たんだ。異なる神を信じる者たちが、互いを認めなかったがために、国の中で戦が起きてね。僕は商船で逃げて助かったけど、家族を皆失ったよ。それで決めたんだ。人を理解する努力をしよう、相手が自分と正反対の意見を持っていようと、なぜそう考えるのかを考えて、平行に歩こう。斜め歩きでぶつかることだけは、絶対にするまいと……。伝承を聞き回るのは趣味でもあり、その物語の根源にどんな思いがあるのか、推し量る力を磨くためでもあるんだ。想像力は行き止まりに取っ手をつけて、可能性というドアにしてくれる。今、僕はまた一つドアを作ったから、開けてみようか」  青年は僅かに深く息を吸い、谷の人魚を指してこう言った。   「君がこの桜を嫌いなのは、自分自身を重ねているから。君が本当に嫌いなのは君自身。違うかな?」
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