谷間に咲く海の夢

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 「谷の人魚」が風の色を塗り替えている。いつからだったろう。玄関を出るなり、少女は顔をしかめて立ち止まった。擦り減りぐらつくようになった杖先を危ぶんだわけではない。家にもう一つの屋根をかけている老木が気に入らないのだ。花の咲くこの季節は、常にも増して嫌いになる。祖母から継いだばかりの花守という肩書にも、憎い相手を愛しくさせる力はないようだ。  左手に抱えた洗濯籠に、やわらかい小さな花びらが降りこむ。風が纏う薄紅の正体。朝の光に(ほの)白むその淡い色合いは、丸めた黒い服の上でひどく目立った。  昨夜までは、この服の色がすべてだった。祖母の永遠の不在を告げるそれ以上に、大きく目に映るもの、心を占めるものはなかった。祖母はたった一人の家族だったのだ。母は産褥熱で、父は倒木事故で、とうにこの世を去っている。大嫌いな花の盛りにも気づかなかった事実に、少女は自身の動揺ぶりを再認識した。    ため息ついでに唇を尖らせ、憂鬱の結晶を吹き払う。老木へのあからさまな嫌悪を示しても、開けたままのドアの向こうから、気遣うように「レゼル」と名を呼ぶ優しい声がすることは、もうない……。    ああ、こんなときに春だなんて。風が温かすぎる。やっと凍らせた悲しみが溶けてしまう――少女は頭を振って懲りない花びらを落とし、握り直した杖を突いて、裏手の井戸へ歩き出した。    この山間の谷の端には、少女の家と、谷の人魚と呼ばれる老木のほかには何もない。おかげで葬儀後、腫れた目を気にする必要もなかった。だが今日からはそうもいかない。服喪の七日間は終わった。村の人々も今日からは仕事に戻るし、娯楽にも興じる。計ったかのように谷の人魚の花が満開とくれば、賑わいは想像に難くない。レゼル以外の村人は皆、谷の人魚を愛している。花の美しさを。辺りに同じどころか似たものすらない珍しさを。そしてこの木が今の呼び名を得るに至った物語を。  その伝承が刻まれた岩壁の前で、少女は井戸の水を汲み、喪服を洗って干した。それだけの慣れた作業でも、生まれつきよく動かない左足と杖を連れていると時間がかかる。時間がかかれば疲労も募る。降り積もる花びらが、それを可視化するようで嫌になる。  少女は井戸の縁に腰かけ、足を(さす)った。自ずと、苔の緑に埋もれて微睡(まどろ)む古い文字が目に入る。老木を疎む理由でありながら、こうして自らの不自由さを呪うときの、唯一の救いでもある物語だ。  ――かつてこの谷に川が流れ、遠い海と繋がっていた頃。海に住まうある人魚が、小舟に乗った青年と出会った。災禍に故郷の島を追われ、地図もなく彷徨っていた青年を人魚は憐れんで、舟を()き、陸への案内を務めることにした。  しかし道中、悪しき漁師の魔の手が迫る。漁師は人魚の血が持つ、飲めば不死にもなるという強い生命力を求めていた。  放たれる(もり)から、人魚は懸命に逃げる。そんな彼女の前方に、不意に小さな袋が投げ込まれた。背後で青年が言う。故郷で自分が大事にしていた木の種が入っているから、沈み失せぬうちに取ってくれ。できればどこかにそれを植え、一度咲いたら決して散らぬ綺麗な花を見てほしいと。  そして引綱は切られた。人魚は託された袋を掴み、銛が青年の胸を突く音と同時に、涙ごと身を沈めて泳いだ。万が一にも漁師が追って来られぬよう川をも上り、ようやく尾(ひれ)を休めたのは、山神に守られた静かな谷底。体は傷つき、剥がれ落ちた鱗が水面に浮かぶ有様だった。川は彼女が泳ぐには浅すぎたのだ。  陸に上がれぬ彼女に代わり、山神が種を植えるため袋を受け取る。けれども海の塩が祟ってか、種は芽吹く力を感じさせない。  聞いた人魚は迷わず肌を裂く。漁師の狙った血、その力で種は生き返った。土に埋められるや芽を出して、見る間に大木となり花を咲かせた。  反対に、命を(ほとん)ど木に移した人魚は息も絶え絶えだった。海へ帰る力はない。山神は彼女を救うため、自らの加護が充分及ぶ陸へと迎え入れた。鱗は残らず川に散り、旅路を流れ下っていった。  山神は人となった人魚に言った。傷が癒えたら足か舟かで故郷を目指せ、失われた分の命は返らなくとも、元の姿には戻れるだろう。おまえの母なる海に、鱗は預けておいたから。  返答は否だった。人魚の私はこの木の中で永劫を、人の私は木の隣で花守として、あの人と同じ刹那を生きる……。  そして約束を果たした「人魚」は今なお花を咲かせる。本来散らぬ花びらを自ら風に委ね、青年に届くよう願い続けながら――    読み終えるといつも、海が見える。尾鰭で水を打ち、楽しげに人魚が泳いでいて、彼女は紛れもない、レゼル自身の顔をしている。  少女は昔話が触れていない初代花守のその後を想像し、元人魚の彼女の血は、子孫を残すという形で受け継がれてきたと信じていた。だから花守の末裔である自分も、海に行けば「元の姿」に戻れるのではないか。ままならない足を捨て、尾鰭で自由に動けるようになれるのでは――期待に心を軽くなる。  しかし海は巨大な緑の壁の向こう。この足でなくても、気軽に赴ける距離ではない。何と説明して村を出たらいい? 人魚になるためなどとは言えない。必要に迫られていない者には信じ得ない話だと、経験で知っている。  唯一の希望さえ行き止まりにある歯痒さ。それ故に、この木さえなければと老木を睨むのだ。命を削る必要が生じず、人魚が今も人魚だったら、少なくとも足のある私は生まれてこなかった。こんな悩みとは無縁だったはずだ、と。
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