夕食はミモザサラダ

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「あっ!」 「え……?」  マンションのエレベーターを降りてすぐの曲がり角、薄いプラスチックがひしゃげるあの特有のグシャという音に私は顔を顰めた。  ああ、ついてない。  春の昼下がり。コンビニに立ち寄った帰りに、鍵を取り出そうと左手に持ち替えたエコバッグの中で何が起こったか。  それは想像するまでもなかった。  社会人3年目の懐事情は寒い。  今日に限ってピンヒールを履いていたことは不運だが、壁にぶつかったのは急に飛び出してきた人物がいたせいだ。  私は振り返り、無残にも卵を亡き者にしてくれたそいつを睨みつけた。 「ごめんなさい」  すれ違った彼はそう言葉にはしたけれど、急いでいたらしくそのまま非常階段のドアの向こうへ消えた。  登ってしまったエレベーターが戻ってくるのを待つのも惜しかったのだろう。  私は何もできずにそれを見送った。  時折見かけるくたびれたTシャツとスウェット姿ではなく、スーツとシトラスの香りを纏っていた隣人。  おそらく私よりいくつか年上で、私と同じくうだつの上がらない社会人なのだと思っていた。  自分の年齢よりもずっと古いマンションに住んでいるのだ。  ある意味親近感を持っていたし、見下してもいた。  けれど、ほんの少し身なりを整えただけで、あんなに印象が変わるなんて。  ボサボサの髪は無造作ヘアに、眠そうな目はやさしそうな目に、はっきりしない顔だちはクセのない整った顔だちに変わっていた。  私は胸の高鳴りを感じながら、自宅のドアを開けた。 「よかった。ギリギリセーフだ」  卵パックを顔の位置まで持ち上げ上下左右から精査すると、10個中3個ヒビは入っているものの中味が飛び出した卵はなかった。  思わず、独り言の音量が大きくなる。  今日は久々に友人と食事に行く約束をしている。  気合を入れてネイルサロンに行った直後に卵料理を作るのは御免だった。  安堵すると同時に、隣人に対する憤慨が薄まる。  いや、もしも私が彼の立場であったなら、どんなに急いでいてもきちんと謝るし、なんらかの形で弁償するとその場で告げるけれど。  格好良かったからまあいいか、なんて考えている自分に呆れる。  私は、自分が思っていたよりも面食いだったようだ。  取り出した卵を冷蔵庫のポケットに入れる作業も楽しく感じた。  あ、でも、ヒビが入った卵は長持ちしないんだったっけ?  ふといつか読んだネット記事を思い出し、私は手を止めた。  けれど、もうすぐ出かける時間だ。手のかかることはしたくない。  10秒考えて、取り合えず卵を茹でることにした。  火を入れておけば多分大丈夫。明日の朝にでも食べればいい。  私は上機嫌でキッチンタイマーをセットした。
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