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翌日の夜、尋ねてきた隣人はすっかり元のダメ社会人のオフモードに戻っていた。
ボサボサの髪、首のところが伸びたTシャツ、サンダル。誤魔化すように羽織ったトレンチコートだけが昨日と同じだった。
「すみません。昨日迷惑をかけたと思うんで」
玄関を開けるなり、彼は6つ入りの卵パックを私に押し付けてきた。
なぜだろう。謝られているのに、寛容な気持ちになれない。
個数の問題ではない。
だって6引く3は3だし。別に損してるわけじゃない。
それよりも私は、彼がだらしない格好をして来たことに嫌な感情を抱いた。
今朝食べたゆで卵を思い出す。
この人のことを考えていたせいで、タイマーの音に気が付かなかった。
想定よりも固く茹で上がった卵は黄身がパサパサで、飲み込むのに酷く苦労した。
喉の奥にはその不快感がまだ残っている。
まだあと2つあるというのに。
「はぁ。別に大したことありませんでしたから、気にしないでください」
急に面倒になって、彼の手を押し戻し冷たくあしらった。
卵なんて見たくもない気分だ。
「すみません。気を悪くされましたよね。
昨日は同窓会に遅れそうだったんで、その場でちゃんと謝れなくて」
「きっちりとした服装で、まるで別人でしたね」
「えっ……ああ、すみません」
すみませんと言わないと死ぬ病気なんだろうか。
謝られるようなことを言った覚えはない。
そういえば、彼が昨日発したのはすみませんじゃなくて、ごめんなさいだった。
その違いは何なのだろう。
もしかして、昨日の彼は見間違いだったのだろうか。双子の兄か弟がいた?
けれど、昨日すれ違った男も、隣人も同じところにほくろがある。
私は彼の目ではなく、左頬をじっと見つめた。
たぶん、同一人物のはずだ。
ううん、本当は知らない。
ほくろの位置を知るほど、私は隣人に興味など持っていなかった。
この人が本当は隣人ではないと言われたら、私はそれを信じるしかない。
春になったとはいえ、夜はまだ冷える。
ドアの隙間から入り込んでくる風に肩を震わせ、私は恨めしい気持ちで彼のコートを見た。
「もういいですか? 部屋着なので寒いんですよ」
「あっ、はい。すみません」
「じゃあ」
私は彼が一歩引いたのを確認すると、ドアノブを引いた。
「あの」
「はい?」
あと数センチというところで声を掛けられ、不機嫌さを隠せない。
「昨日みたいに化粧した方が何倍もいいですよ」
「は……?」
今日、彼が割ったのは卵ではなかった。
ほんのりと芽生えた私の恋心と自尊心。
理解した時点で終わっていた。
恥ずかしい。
ある意味、私たちは似た者同士。
私は人を見た目で判断する浅ましさを自覚し、ゆで卵を握りつぶして完食した。
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