最後の献立

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 母さんの、手の込んだ食卓いっぱいの夕飯を最後に食べたのは、何月何日だったんだろう。その時の献立は、何だったんだっけ……。  その日、これが最後の機会だなんて考えないから、ちくしょう、覚えていない。  俺は湯船につかりながら、数年会えていなかった母の死に直面し、溢れ出る涙をひたすら拭った。  これが最後だってわかってたら、もっとちゃんと味わって、美味いってちゃんと伝えたかった……うぐぐ…… チャポン!!  突然、湯船から俺の目の前に何かが飛び出した。  5センチほどのそれは、ドラえもんのパロディのような雪だるまのような、なんとも不安定な格好をして、俺の目の前に浮遊している。 「ワタシは、最後の献立を記録するロボットです」 「……は?」 「アナタが、〝その人と食事をするのが最後の機会″になった時、その日付と献立を記録します。」 「……は?え、……え?」 「ナマエは、ラストチャンスメニューメモリ、略してチャンメモです」 「え?らす……ちゃん……え?」 「ヨロシクオネガイシマス」 チャッポン……  俺の目の前で浮遊していたそれは、また湯船の中へと消えていった。あまりに混乱して今しがたの出来事をどう受け止めればよいか全く収拾がつかず、あぁ俺は深い深い悲しみによって、幻覚、幻聴のようなものが見えてしまったのかと結論づけることにした。  悲しみの中で行われた葬儀に、遠縁の親戚らも黒々と集まり御斎が開かれた。みんなあれやこれやと母の思い出を語ったり、残された父と兄貴と俺を気遣い、時に「仕事はどうや?」などと他愛もない話をした。  ずいぶん久しぶりに会う八重子おばさんが、お造りをちょぼちょぼと食べながら、「誠二君もがんばりぃや」と優しく俺の背中をさすった。  全ての儀式が終わり、疲れ果てて自宅に帰り着いた俺は、湯船につかった。 チャポン!!  またしても、5センチほどの下手くそな雪だるまみたいなあれが飛び出てきた。 「9月17日、茶碗蒸し、山芋もずくわさび、かぼちゃ豆腐、鱈の辛子味噌漬け、玉子焼き、鮪、金目鯛、アオリイカの三種盛、のどぐろの炙り、トラウトサーモン、南蛮海老の握り寿司三種、味噌汁、抹茶アイス、コーヒー」 「え……?あ、今日のメニュー……?」 「そうです」 「え、ってことは、今日俺と食事をするのが最後だった人がいたってこと?」 「その通りです」 「え、誰だろ……。そんな……また法事で会うと思うけど……」 「……」 「え、誰かは教えてくれないわけ?」 「……」 チャッポン……  たしか自称チャンメモなるそれは、また湯船に消えていった。  月日は流れ、その後八重子おばさんとは会えていない。何度か法事は行われたものの、おじさんと夫婦水入らずでシンガポールへ移住したから出席しなかったのだ。  今となっては、チャンメモが湯船に現れることを俺はすっかり受け入れている。  入社以来ちょっと苦手だった日高先輩が会社をやめた時の送別会の日も、帰って湯船に浸かるとチャンメモが現れて、その日のメニューを喋った。俺と日高先輩しか食べなかった激辛キムチ豆腐が記録されていたから、俺は今後、日高先輩と食事をする機会はないのだろう。  俺は誰かと食事をする機会があると、この人との食事は最後かもしれないと薄っすら思うようになっていた。だから無意識的に、献立に興味を持ち、味についてやいのやいのと感想を話し、その場を楽しいものにしようとしていた。  そんな中、そろそろ周りも続々と結婚し始め、よし俺もと、マッチングアプリに登録して彼女作りに奔走した。 チャポン!! 「5月20日、ブラータチーズとびわのサラダ、鯛のカルパッチョ、トマトとモッツァレラパスタ、スズキのポワレヴァンブランソース、マダガスカルバニラのジェラート……」 「あぁああ、オッケーオッケー。はぁ〜……サナちゃんだめだったかぁ〜……」 俺は深いため息をつく。 チャポン!! 「7月6日、天草大王の柚子ポン酢たたき、クリスピーポテト……」 「あ゛ー、オッケーもういいよ……ミナミちゃん可愛かったんだけどなぁ〜……」  そんなこんなで彼女作りには悪戦苦闘していたが、諦めはしなかった。  夏も終わりを告げようとしている9月初旬の土曜日、なかなかタイプど真ん中の佐竹由美さんとマッチングした。  俺はヤケクソにも近い勇気を出して食事に誘い、約束を取り付けることに成功した。  緊張の当日、俺は佐竹さんとの時間が楽しくて、最後にしたくなくて、俺なりに精一杯やった。  その日の湯船……。  俺は胸の前で両手を組み、チャンメモが出てこないことを祈りながら入る。 しーん。 「?あれ、チャンメモ……?」  今まで自分から呼び出そうとしたことなどないくせに、出てこないことに逆に驚いてつい呼んでいた。 しーん。  やっぱり出てこない。  おや?ということは、佐竹さんとまた食事できるってことだよな?  2回、3回と食事デートを重ねたが、湯船でチャンメモが現れることはなかった。  その度に俺はガッツポーズし、次の機会も、その次の機会も、またこうして一緒に食事できることを心底嬉しく思い、味についてやいのやいのと感想を言い合って、幸せな時間を過ごした。  やがて俺たちは結婚し、家庭を築いた。子どもを3人授かって、小さな小競り合いは日常茶飯事であるものの、大病もなくそれはそれは幸せな日々を送った。  孫達にも恵まれ、この年になってお互い膝やら血圧やら、定期的な通院は日課のようなもんだけど、簡単な朝ご飯、昼ご飯、夕ご飯、一緒にだったりそれぞれだったりしながら、暮らしていた。  一番下の孫が大学に上がった頃、俺はもう体がきつくなってきた。もう膝が痛くて立ち上がるのが一苦労だし、この前引いた夏風邪のせいで痰はとれんし、なんだかもう、だるいしなぁ……。  ゆっくりとした動作でぬるい湯船につかる。 チャポン!!  5センチほどの不格好なゆきだるまが飛び出てきた。 「9月14日、ネギの味噌汁、白ご飯、カレイの煮付け、キムチ」 「おぉ、チャンメモか……。えぇっと?なんて言ったかな?」 「9月14日、ネギの味噌汁、白ご飯、カレイの煮付け、キムチ」 「あぁ……夕飯の献立か」 「そうです」 「そうかぁ……。俺が由美と最後に食べた献立は、味噌汁にカレイ、……」 「白ご飯、キムチです」 「おお、そうかぁ。ご馳走じゃ」  俺は目を閉じて、今日の夕飯が並べられた食卓と、テレビに目をやりながらむしゃむしゃと笑う由美の顔をゆっくりと思い返す。  醤油がよく染みて、生姜がアクセントにきいている口溶け柔らかいカレイ、我が家流の飲み慣れた麦味噌の味噌汁のあたたかな味わい、炊き立ての白米の一粒一粒の甘み……。俺は由美の最後の献立を、俺の全身に染み渡らせるようにゆっくり、ゆっくりと何度も味わい、「ゆみ、うまかった」と呟いた。 〈完〉
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