最後の彼氏

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「財布、車に忘れたかも。」 お風呂上がりの彼が部屋を出て そろそろ15分が経った…と思う。 また一緒にお酒でも飲むのかな それとも… なんて思っちゃうほどには やっぱり旅行は浮かれてしまう。 「女は待たせ過ぎたら、駄目なんだぞ。」 呟いた言葉が 春の夜空に波紋を作って広がっていく。 1つ また 1つ。 ゆっくりと広がった言の輪は 星を覆って 月を揺らせて 私を… 「お待たせ。」 振り向いた先の彼は スーツに身を包んでいた。 先程まで浴衣を着ていた彼とは別の もう一人の彼が現れたような 和風な旅館ではなく 高級ホテルにいるかのような 今でもわからないようで 前からわかっていたような そんな 非現実。 「あれ、今日何かの日だったっけ?」 おどけて言った私の言葉は 彼の耳には届かない。 ただ彼は ゆっくりと 私の前に跪く。 「…。」 「…。」 しばらくの 静寂。 お互いの胸の鼓動が 部屋中に響き渡る。 彼の堅い表情に 思わず差し伸べたくなる手を 前頭葉から必死に止める。 「…。」 「…。」 「…あの、さ。」 「うん。」 彼は握り締めた両手を開く。 「僕にとって、あなたは特別です。学生時代の自分。社会人の自分。友達の前の自分。家族の前の自分。全てが本当の自分のはずなのに…僕はあなたの前でなら、心から笑えます。あなたの前でなら、心から涙を流せます。あなたには、僕の話をしたくなります。あなたの話を聞きたくなります。甘えたくなります。甘えられたくなります。離れると寂しくなります。また逢えると嬉しくなります。 何より…僕は誰よりもあなたを愛しています。誰よりもあなたを笑顔にします。そして誰よりも、あなたを幸せにします。 僕と…僕と…僕と、結婚してください。 そして、あなたの残りの人生を、僕と一緒に過ごしてください。」 …。 大丈夫 ほら … 大丈夫。 私はゆっくりと左手を差し出す。 彼は優しく私の掌を包む。 震える手 強張る肩 真剣な眼差しの中にある 丸い形をした銀色の未来。 私は彼にキスをする。 驚く彼に 私は2度目の不意打ちをする。 「よろしくお願いします。」 別に何が正しいとか 何が間違いとかなんてない。 ただどんなことも始まってみないと どんな結末になるかすらわからない。 小説の主人公のように 綺麗な起承転結があるわけじゃない。 ただそれをハッピーエンドに書いていくのかは その物語を生きる人たち次第である。 どんなことがあろうとも 二人で手を取り合って 最後に必ず笑って終わることが出来れば それが私たちらしいハッピーエンドのような そんな気楽な気持ちで良いのかもしれない。 「実は結構緊張してて、何て言ったのか、いまいち覚えていないんだよね。」 そう言って緩んだ彼の笑顔は 薬指越しに小さく輝いて それでいて私には 少し滲んだように見えていた。
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