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咲かない桜
非常用の荷物って、一体なにを持っていくべきなの?
携帯。タブレット。これは必須よね。あと充電器。それから……着替え? 歯磨きセット? お気に入りのぬいぐるみ?
「真奈、早くしなさい、あと30分でトラック来ちゃうよ!」
母のイライラした声が、湿気を帯びた熱風に乗ってリビングから流れてきた。わかってるよ煩いなあ。自分に必要なものを熟考してるんだから静かにしててよ。
17年間、慣れ親しんだ私の部屋は、見るも無惨なほどに散らかっている。文字通り足の踏み場なんて1ミリもない。
泥棒が入ったのでもなければ、自然災害に見舞われたわけでもない。3日前、政府が出した「避難命令」に従うべく、必要最低限の荷造りをした結果だ。
他になにか持っていくものはないかと、ぼんやり部屋を眺める。
ああ……こことはもうお別れなんだ。小学校に上がったときに買ってもらった小さな勉強机。一番上の引き出しには宝物を入れていた。白いフレームのベッドは、幼い頃、お姫さまに憧れた結果の選択だ。ヘッドボードがやたらメルヘン。いつかバイトして買い換えようと思ってた。その夢が、夢で終わってしまうことになるなんて。
あ、やばい泣きそう。
「真奈ちゃん」
不意に背後から聞こえた祖母の優しい声に、一瞬びくっと身を縮ませてしまった。いかん、涙なんか見せられない。
「ん、なに?」
私はいつもの、元気いっぱいの笑みを纏って振り向いた。おばあちゃんもいつもと同じ、優しい笑顔でちんまりと佇んでいた。
「これ、アルバムなんだけど、真奈ちゃんの荷物のなかに入れてもらえないかねえ?」
差し出されたのは、縁が茶色っぽくなった大きなアルバム。相当分厚くて、相当古そう。
「うん、いいけど?」
なぜこれを?
「かさばるし、持っていかないって決めたんだけどねえ……いざとなったら、名残惜しくなっちゃって」
「あー、わかる。いいよ、まだ段ボール閉めてないから」
「ありがとねえ」
祖母の枯れ枝のような腕からずしりと重いアルバムを受け取った。
ここに、このなかに、祖母の人生が詰まってるんだ。そう思うと、なんだか切ないような、なんとも言えない気持ちになった。ちょっと羨ましくもある。私の写真は、全部USBのなかだから、デバイスがないと見られない。
「ね、おばあちゃん、なか見てもいい?」
「いいけど、荷造りは終わったの?」
「大丈夫大丈夫」
アルバムをそっと床に置いて、少々畏まりながら頑丈な表紙をゆっくりめくった。
たくさんの笑顔が、写真のなかに溢れている。おばあちゃんが大切に持ってるアルバムなんだから、幼少期の父とか叔父とか叔母とか、私も知ってる誰かなんだろうけど、みんな若すぎてわからない。くちゃくちゃな顔で泣いてる赤ちゃんの写真もある。
「それ、真奈ちゃんが生まれてすぐの写真だよ」
「えっ」
私、こんな不細工だったのか……。
「これは、この家が建ったとき。記念におじいちゃんが家族を撮ってくれたんだよ」
確かに私の家の玄関だ。お母さんめっちゃ若い。おばあちゃんは今よりちょっとふっくらしてるな。お父さんの足にしがみついて不機嫌そうにこちらを睨み付けているのは……私だたぶん。
「あれ? これは?」
家の前の道を撮ったその写真には、見慣れない街路樹が映っていた。透き通るような、白に近いピンクの小さな花が、まるで霞のように枝全体を覆っていて、ずっと遠くまで続いている。
「桜だよ」
「ええっ!」
思わず目を見開いておばあちゃんを見た。
「桜の木って、花が咲くの?!」
「毎年、冬が終わるとね、こういう綺麗な花を咲かせていたんだよ。桜が咲くと、春がきたんだって、嬉しくなったものだよ」
「“春”」
「この国には四季ってものがあったんだよ。寒い冬の次に穏やかな春がきて、日射しがいっぱいの夏がきて、風の涼しい秋になって、そして雪の降る冬になる」
「……桜は、なぜ咲かなくなっちゃったの?」
「気候が変わってしまったからね。寒い季節がないと、桜は咲かないんだよ」
私はぼんやりと窓の外に目を向けた。
あの窓からも桜並木は見える。花の咲かない桜並木。淡いピンクに染まっているのを想像しようとしたけど、できなかった。
「桜が咲いていた頃は、みんなでお花見を楽しんだものだよ」
ふふ、とおばあちゃんが笑った。
桜が咲かなくなってしまったのは、なぜ?
南極の氷が解けてしまったのは、なぜ?
たくさんの陸地が海に沈んで、たくさんの人が生きていく場所を失って、それでもなお太陽はギラギラと照りつける。こうしている今も、海は大地を侵蝕し続けている。
なぜ?
なぜ私は、生まれ育った家を出て、知らない土地に避難しなきゃならないの?
「真奈ちゃんが大人になったら、桜の下で一緒にお酒を飲むのが、おじいちゃんの夢だったんだけどねえ」
大好きだったおじいちゃんはもういない。おじいちゃんの夢は叶わない。私の夢も。咲かない桜なんて嫌い。
「ねえ真奈ちゃん。これから行く北海道には、まだ桜が見られるところがあるっていうよ。落ち着いたらおばあちゃんと見に行こう」
頬を伝っていた涙に気付いて、手の甲でぐいと拭った。
うん。
大丈夫。
たとえこの街が海に呑み込まれてしまっても、私はこの世にひとりぼっちって訳じゃないんだもの。
たとえ花は咲かなくても、桜は、まだ滅んだりしていない。
【おわり】
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