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第3話 「おやすみ、娘」
(UnsplashのLing Xian Suが撮影)
その日も、ピンクの花びらがふりしきっていた。
シノが庭に植えた桜、おれたちの娘である『プルヌス』は満開になり、はらひらとふりしきった。
おれはもう、立っていられなくてプルヌスの根元で泣きじゃくっていた。
「プルヌ、そんなに咲かなくていい。お母さんは、もうおまえを見ないんだ。おまえだけじゃない、おれのことも、もう見ないんだ」
2時間前、シノは静かに息を引き取った。彼女を苦しめつづけた病が原因ではなく、老衰で亡くなった。
しずかな、とてもしずかな最期だった。
彼女はおれをみて、わらった。
「ありがとう。あなたの体と生きた時間は、とても暖かかった。サンギの体だから、一緒に生きてこられたのね。ありがとう」
シノはおれを見た。
おれの眼球でおれを見て、おれの声帯でしゃべって、おれの肺で呼吸をしていた。
おれの筋肉で腕を上げて、そっと顔を撫でてくれた。
気が付いた。
おれはシノの体に入った筋肉を経由して、彼女と一緒に生きていたんだ。ふたりは別々の固体でありながら、同じ時間を共有していた。
おれはシノであり、シノはおれだった。
なんという幸せな一生だったのだろう。
シノもきっと同じことを考えていた。
「ありがとう、サンギ」
そういって彼女は静かに目を閉じた。
彼女の中のおれの筋肉もしずかに動きを止めた。
役目を、終えたんだ。
彼女とおれの筋肉、おれの内臓はいってしまった。
おれ一人を残して。
おれはシノの髪を切り取り、庭へ出た。プルヌの根元に埋めようと思ったんだ。
前夜の雨でぬれている土を掘っている途中、動けなくなった。
「シノのいない世界に、なんのいみがある?」
おれのうえに、プルヌの花びらが降りしきる。手にした白銀の糸の上に花が積み重なる。
薄いピンクの花びら。
あの日、病院で初めての移植を決めたときシノの爪は同じ色をしていた。
時間とともに彼女の爪は固くなり、色も変わっていったけど。小さな花びらのような形は今も同じだ。
そしておれの手は50年前とかわりようがない。
しわもなく、痛みもこわばりもなく、この先100年を約束された手だ。
無為な100年。
シノのいない100年。
おれは白銀の髪とプルヌの花びらの上に顔をおしあてた。
神はほんのりと温かくしめり、まるで生きているようだった。
「いやだ、いやだいやだ。ひとりじゃどうにもならない。助けてくれ、シノ! 助けてくれ、プルヌ!」
そのとき、プルヌの枝がぶるっとふるえた。
まるで優雅に踊る筋肉のように、桜の枝がふるりと、ふるえたんだ。
ふるり。ふるり。
プルヌは自由に動いているみたいだった。
『おとうさん、動かせるのよ。
自分の体って、自由に動かせるのよ。
筋肉、内臓、筋肉、内臓、動かせるの。
動かせるのよ……』
ふと、おれは思い出した。
50年前、あの医者は何と言った?
『最新技術の人工パーツなので、いろいろなオプションも付けられますよ。不随意筋肉を随意筋肉に変えることも可能……』
そうだ。
おれの筋肉はテストパーツのままだ。だから今の人工筋肉では、倫理上の問題で付けられないオプション機能が残っている。
『不随意筋肉を、随意筋肉に』
普段は意識しなかったが、おれは不随意筋肉を自分の意志で動かせるのだ。
本来なら自律神経が生存のために自動的に動かしている筋肉を、おれは好きなように動かせる。
たとえば心筋。
心臓の筋肉。
自由に動かせるということは、自由にとめられる……。
自分の意志で、とめられる。
今日も不思議なくらいに桜が舞っている。
おれは眠るシノを庭に運び、その隣によこたわった。
蒼天が、天上の底へ駆け抜けるようだ。
ちいさくなったシノの手と手をつなぐ。
頭上にはシノが植えた桜、おれたちの娘である『プルヌ』が爛漫に咲きほこっている。
おれはずっと、桜がきらいだった。シノの病が分かったあの日を思い出させるからだ。
だけどいまプルヌの花につつまれて、おれは静かに目を閉じる。
かたわらには50年をいっしょに生きた大事な女が眠っている。
シノとともに眠ることほど、幸せなことはないだろう。
この春は、なかった事にしておくれ、プルヌ。
おまえのなかに永遠の未来が残るように。
次の春も、永遠の希望を咲かせるために。
とん、と心臓が最後の鼓動をうった。
おやすみ、娘。
おやすみ、娘。
どうか神さま。
この春は、なかったことに。
おれの大事な女たちが、永遠の桜に包まれますように。
【了】
『この春は、なかったことに』
2023年3月13日
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