第二話 硝子張りの世界

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 そんな何時もとは少し違う照明チェックを終え、作業灯と客電が点く。 「元山さん、照明チェック終わりました」 「はいよお」  袖に向かって歩みながら声を掛ける望月さんに答える元山さん。俺達は普段このまま劇場管理の照明さんに声を掛けてピンチェックに上がるのだ。 「あ、先に行ってて下さい。連れて行くんで」  ピンルームに向かう背中に声を掛け、俺は一人客席に向かった。アップ用のマットでその身体には似合わない機敏な腹筋をしていた銀次は、俺の姿に気付くと瞳を輝かせて仰ぎ見た。 「もう行くの」  相当楽しみだったのだろう。小さく頷くと、慌ててマットを畳み、嬉しそうに俺の後ろをくっ付いて来た。  この劇場のピンルームに行くには、下袖から階段で延々四階分位上がらなくてはならない。上り切ると薄暗い上に鉄骨が縦横無尽に行き交う天井裏を今度は客席奥に向かって進む。シーリングを越えて、その奥が漸くピンルームになるのだ。 「気を付けてな」  ライトで足元と鉄骨を丁寧に照らしてやる俺の後ろで、銀次は何やら大袈裟にはしゃいでいる。慣れた俺達はいちいち屈んで通らなきゃならない事が嫌で、この鉄骨ぶった切りたいなんて悪態をつくここも、初めて来る者にとってはまるで幼い日の探検のように感じるらしい。新鮮な反応も悪くは無いなと思えた。  小さな大冒険を終えた俺達が辿り着いた目的地では、デキる女遠山淳子が満面の笑みで待っていた。 「銀ちゃんいらっしゃい、ようこそ私達の巣へ」  別に愛の巣とか変な意味じゃ無い。小屋に入って最初にピンルームへ上がると、俺達は自分がピンを振りやすいように色々と調節をするのだ。手元明かりから、椅子の高さ。箱馬がいるかとか、色は何処に置くと取りやすいかとか。それは本番を滞り無く、快適で、良い仕事をする為には欠かせない作業なのだが、これを巣作りと言う。余りにその日の本番がダメで落ち込んだ新人は無駄に巣に篭ったりもする。俺達にとってのピンルームは、正に居城と同じ。この公演の間だけは自分の世界となる。  そんな巣に迷い込んだ銀次は、先に上がり何時ものようにピンチェックをする遠山さんを見て、悪戯っぽく笑って見せた。 「わあ、淳子さんが働いているの初めて見るかも」  俺が言ったら一年間口聞いて貰えないような軽いジョーク。 「何言ってんの銀ちゃん。今日からピン無しね。大貫さんの明かり暗いからシルエットしか見えないよ」 「嘘ですって」  冗談を交わす二人を見ながら、俺は一人背筋を震わせた。  照明家を怒らせると怖いのはそこだ。プランナーによって違いはあれど、我が社の場合ピンのデザインに関してはピンチーフが全てを組み立てる。取り出しや消し切りのきっかけや、色や、誰に光を当てるか等、全てだ。それが第二のプランナーと呼ばれる所以。勿論、演出家やプランナーの指示があれば従うが、基本的には全て場当たりで演出家なりプランナーへ自分はこう見せたいとプレゼンテーションの意を込めてピンを焚く。その中で辻褄を合わせたりして総合的な照明デザインは作られてゆく。  例えば銀次なんてきっと端役だろうが、明かりが無い場所に行ってしまったら暗くならないように遠山さんは確実にカバーするだろう。そう言う物はカバーフォローと言って、あたかもピンが当たっていないように他の役者と大差無く見える程度の光量でカバーする物だ。芝居では割と多用する技法だが、遠山さんはその技術も抜群に上手い。逆に芝居も下手、態度も悪い役者はどんなに暗い場所に行ってしまっても、全くカバーしようとはしない。見たくもない奴には言われない限り当てない。芝居を舐めている奴に当てる光は無いと言うのもまた、遠山さんの持論。そう言う所は結構はっきりしている。まあそもそも、良い役者は自分から探して光に入って行くものだが。  しかし照明家を怒らせると舞台で明かりは当たらないなんて、何とも酷い話であるが、俺達だって人間。ここはそんな人間臭い世界ではある。
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