第二話 硝子張りの世界

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 そうこうしている内に遠山さんはピンチェックを終えてピンルームを後にした。取り敢えず全てに興味津々な様子で辺りを見回す銀次を上手側のピンに誘導して、椅子に座らせる。 「こっちが、俺のピン。点灯するからちょっと待って」  大きな筒のケツ辺りのスイッチを押し、ピンを点灯させて、いざ説明でもしようかと向き直ると、銀次は筒の前側に白いガムテープで貼り付けてある二本のバインド線に釘付けになっていた。 「何これ」  興奮気味にそう言う気持ちは分かる。先端にほど近い辺りから触覚みたいに二本突き出たバインド線の、何とも不恰好な事。 「それが照準」 「照準……これで狙うの」 「そうそう」  銀次はアナログだね、と言って小さく笑った。  照準は依ったバインド線を二本用意して、その先に小さな丸い穴を作ってピンにくっ付けるだけの簡単な物だ。二つの穴が重なる所を調節する事で、光を当てたい場所を狙って出せる仕組みになっている。銃で使うような電池式の照準器や、ピン専用のすこぶる便利でバカでも当たるようなな照準器もあるのだけれど、我が社は下手なうちはバインドでやれと言う教育のお陰で、俺は未だこのバインド照準。商業劇場にいる大御所のフォローマンは照準なしで額から抜けたりするらしいが、流石に我が社にはそんな職人はいない。 「効き目どっち」 「左、かな」 「そしたら右目瞑って、二つの穴が重なった所から出るから。じゃああの鉄骨の角とか狙ってみ」  元々器用で勘も頭も良いのだろう。銀次は細かい説明をしなくても、自然と一丁前にピンを振る姿勢に入っている。今年入った新人なんかよりもよっぽど呑み込みが早い。 「アイリスこの位開けて、小指と薬指でダウザーを──」  説明をしながらダウザーを握る白い指先に視線を移し、俺は思わず一瞬思考が停止した。  男にしては細い骨ばった手首に残る、赤い痣。髪留めのゴムでも巻いているのかとも一瞬思ったが、薄暗い手元明かりの下でも分かる立体的ではないそれ──まさかの、緊縛趣味。そんな悍ましい想像が脳の奥底で頭を擡げる。 「これでこっちを開ければ良いのかな」  続きを促すように問い掛けられ、俺は慌てて視線を逸らした。 「そ、そうそう」  見間違い……と言う事にしておこう。そうは思っても拭いきれない不安にも似た疑惑。 「凄い、出た、こうやって狙うんだ。何かシューティングゲームみたいだね。俺は毎日徹に狙われているんだあ」  そんな俺を尻目に銀次はそう言うと、楽しそうに舞台を横切る演出部の女性を執拗に追い掛け回し始めた。とても今年三十五歳になるとは思えない位見た目が若く、思考が何となくふわふわしていて、全く角の無いちょっとふくよかな方。舞台人は何故か役者だけでなくスタッフも年齢不詳な人が多い。  にしても、やはり見かけによらずアブノーマルな趣味を持っている事に驚きだ。見間違いと思い込むつもりが、楽し気な銀次の横顔を眺めながら、気付けば俺の頭の中では妄想が進んでいた。  細い手首や白磁の肌が、ささくれだった荒縄に縛り上げられて行く。痕が残る程に、強く。そして黒曜石を嵌め込んだような大きな黒眼を潤ませて、掠れた甘ったるいこの声で何を懇願するんだろうか。  ……いや、そもそも俺は一体何を考えているんだ。ぶんぶんと頭を振って、思い掛けない邪念を振り払う。  そんな俺の気も知らず、当の本人は無邪気に声を上げて笑っている。 「ゆきちゃん面白い」  ゆきちゃんとはさっきから追っかけ回している演出部の女性、常盤幸子さんの事。小熊のような可愛らしいシルエットが、プリセットをしながらも果敢にピンの輪から逃れようとフェイントを掛ける様は確かに面白い。銀次はその幸子さんと取り分け仲が良いのは興味の無かった俺でも知っている。だがこんな事をして後で怒られるのは俺である。  そんな追い掛けっこに疲れた幸子さんが袖にハケて行くと、銀次は慌ててピンを消した。その時銀次はやはり舞台人なのだなと、感心してしまった。袖にピンが当たる事を本能的に嫌うのは、照明家だけではない。舞台の暗黙の了解として、黒い物は見えていて見えていないものなのだ。それに光を当てるなんてナンセンスな事この上ない。つくづく可笑しな世界である。
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