第二話 硝子張りの世界

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 ふと気付けばさっき迄少年のようにはしゃいでいた銀次は、思わず息を呑む程真摯な眼差しで舞台を見詰めていた。声を掛ける事も出来ない俺を他所に、細い指先が目の前一面に張られた硝子越し、鉄骨の額縁の輪郭をゆっくりとなぞる。 「ここには、世界がある。ここでなら現実から遠く離れた別の世界を覗けるんだ。俺たちがどんな気持ちで創ったとしても、ここにあるものは虚構。たった二時間程度のその時を楽しみに、皆ここに来る」  静かに言葉を紡いだ銀次が発する、まるで芝居が始まる前の張り詰めた緊張感に、俺は思わず生唾を呑み込んだ。  光量を落とした手元明かりに浮かび上がる白い項。左右対称、綺麗に切れ上がった瞳を覆う真っ直ぐ生え揃った長い睫毛。そして何より、聞く者を引き摺り込むような、掠れた甘い声色。この青年が若くしてこの世界を駆け上がったその理由の本質が、その時に何と無く分かった気がした。美しいのだ、神條銀次は。それも無条件に吐息が漏れるような品の良いものではない。正しく瀧本零が好むこの舞台美術のように、壊れ、穢れ、挙句地の底に堕ちた物の発する退廃的な美しさ。それは水平線から昇る朝焼けよりも、世界が認める美術品よりも余程人の最も弱く脆い部分を刺激する。 「この箱の中にいるとね、たまに怖くなる。人はどうして誰でも無い他人を演じる滑稽な道化を求めるのだろう。どうして……胸が掻き毟られるような悲劇を求めるの」  物憂い気に語る相手は、きっと俺では無い。それはまるで、硝子に映り込んだ自分への問い掛け。 「徹、この芝居がどんな意味を持っているか分かる」  回り続ける整流器の耳障りな雑音を貫き投げられた問いに、当然俺は答えを持ってはいなかった。 「さあ……」  漸く絞り出した答えを得て、不気味に揺らいでいた瞳が何時もの輝きを取り戻し俺を捉えた。小さく肩を竦めて悪戯っぽく笑う顔も、まるで何事も無かったかのよう。 「ね、この公演が終わるまでに考えてみてよ」  何と無く、頷いてしまった。何処か歪に歪んだ空気は、深く考えさせてはくれなかった。  それを見届けると、銀次は柔らかく微笑み椅子を立った。 「そろそろ行かなきゃ。美晴さん怖いからさ」  美晴さんとはヘアメイクチームの長の事だ。間も無く銀次の順番らしい。暗い天井裏に一人歩き出そうとする背中を俺は慌てて止めた。 「ちょっと待って、危ないから、一緒に行こう」  慣れている人間ならまだしも、暗い上に狭い天井裏で座長に怪我をさせるなんてとんでもない。挙句迷い込んだら危険な場所は五万とあるのだ。銀次が足を止めた事を見届けて、俺は急いでピンチェックを始めた。ピンチェックは照準がズレていないか、問題はないかをチェックする物。下手なうちは時間いっぱい練習したりもするのだけれど、今日はそんな事をやっている場合じゃない。  駆け足でチェックを済ませ、来た時同様天井裏を進んで長い階段を降りきり漸く地上に降り立つと、銀次は眩しい程に屈託の無い笑顔を向けた。 「ありがとう、楽しかった」  爽やかにそう言った唇が、不意に昨日の夜道で見たように不適に持ち上がり、身を引く隙もない位自然に銀次は俺に抱き付いて来た。鼻先を掠める覚えのある匂い。俺の首に回した腕に微かな力を込めて、甘ったるいハスキーボイスが耳元で小さく囁いた。 「ねえ、徹。曇り無く、磨いてね」 「え……」  一体、何の話だ。 「いたいた、何してんの銀ちゃん。美晴さん怒ってるよ」  その高い声が止まる思考を動かした。楽屋から銀次を探しに来たヘアメイクのお姉さんが剥くれっ面で手招きをしている。 「あ、すみません」  するりと抜けて行く腕で巻かれた風が、弱く頬を撫でる。楽屋に向かい足早に去る背中が見えなくなっても、暫く動く事も出来なかった。  神條銀次。全く不思議な人物だ。近付く度に、遠退いて行くような。いや、知れば知る程に距離が計れてくると言った方が正しいだろう。俺達は同じ年で同じ一つの作品を創り上げている。志を同じくした、チーム。それは間違いない。けれどきっと俺と銀次は全く別世界に生きているのだ。  人懐っこくて、天真爛漫で、しかし何処か暗い影を背負い、全てを知っているかのように妖艶に微笑む。そのどれも演じられた姿にさえ思える。素なんて物が、彼の何処かにあるのだろうか。深い虚を指先で転がすあの青年は、まるで手がすり抜けそうな程に磨き上げられた薄い硝子の向こうにいるようで、それに悪戯に触れてはならない気がした。
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