第二話 硝子張りの世界

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 楽屋に戻ると、絶賛チェック中の音響さん以外は何時もと変わらず各々の時を過ごしていた。夕飯を食べる人。競馬新聞を読みふける人。携帯を弄る人に、本を読む人。毎日一緒にいるし、何よりここにいるスタッフはイリュミナシオン公演の時のレギュラーメンバー。今更無理して話す間柄でも無いのだ。自然と部所毎に別れている中の照明エリアには、夕飯を食べる望月さんと、本を読む遠山さんの姿。山城さんは大方ムービングの細かい修正をしているのだろう。あの人はとても真面目とは言えないし、仕事熱心ではないけれど、意外にも納得する迄とことんやるタイプ。矩形が少し歪だったりする事が許せないらしく、初日が開けてからも一人黙々と修正をしている。  俺も望月さんにならい買っておいたコンビニのパンを片手に椅子に腰を下ろす。焼きそばパンを口に運びながら、ふと蘇る。細い手首の、赤い痣。焼きそばが縄に見えてしまうのだから重症だ。あれは十中八九、縛られて出来た物だと思えてならない。一見純粋そうな顔して、SM趣味に走る女にでも飼われているのだろうか。気になり出すと止まらない。 「銀次君って女いるんですかね」  何気無く放ってしまった俺の問い掛けに、一瞬にして狭いスタッフ楽屋に緊張の糸が張り詰めたのは多分気の所為では無いだろう。誰もが何も知らぬ顔をしながら、確実に何かを知っている空気。俺がその謎の緊張感を見定めようとする事を阻止するかのように、望月さんは何食わぬ顔で隣の遠山さんに笑いかけた。 「いや、何か想像つかないよな。ねえ、元山さん」  続け様この劇団とも一番付き合いの古い元山さんに話しを振る。 「ああ、まあ、銀次なんかガキの頃から知ってっからなあ。なあ、シンさん」  続いて元山さんは演出部の山田進次郎さんに話しを振った。読んでいた競馬新聞から視線をそらす事もなく、シンさんこと山田さんは小さく笑った。 「そうそう。新聞社に初めて来た時はまだ下ろしたての学ラン着ててな。瀧本の隣でじいっと場当たり見てたなあ」 「久しぶりに芝居小僧見たって気がしたよな」  二人は酷く懐かしそうに思い出話しを語り出し、俺はそれ以上追求する事も出来なくなってしまった。まるで明かしてはならない秘密のバトンリレー。  先に山田さんが言った新聞社と言うのは、劇団名だ。瀧本零が本を書き、今や売れっ子演出家である三本宰が演出をしていた劇団、貞操新聞社。劇団名から想像がつきそうなものだが、上演される物はお涙頂戴のヒューマンドラマでも、青春喜劇などでも無く、人間の弱い部分を剥き出しで突き付けるような、目も覆いたくなる程に狂気的な物だったそうだ。ついでに演出もイリュミナシオンのような抽象的な物では無くて、音響も照明も舞台美術も、もっと直接的にエグい物だったらしい。  洗練された戯曲、懐古主義に囚われていながらも前衛的で振り切れた演出、美貌揃いの劇団員。そして禁断と言う蜜に引き寄せられ、六年前に解散したその劇団はその頃アングラ演劇界では知らぬ者はいない程ノリに乗っていたらしい。何故そんな時に解散したのかは知らないし、俺はそもそも存在を知ったのすらこの会社に入ってからだ。  今回のプランナーである大貫さんは、その貞操新聞社の頃からデザインをしているそうだ。望月さん含め、他部所のスタッフも殆どがその頃からの付き合いだとか。神條銀次がその劇団に所属していたのはちらりと聞いた事があったけれど、瀧本さんとは余程仲がいいのだろう。でなければまた一緒に劇団を立ち上げようなんて思わないだろうし。  そんな事を考えながら暫く思い出話に花を咲かせている皆をそれとなしに眺めていると、突然思い出したように元山さんは俺に視線を投げた。 「まあ、あいつは芝居以外に興味あるもんなんてないんじゃないか。あったとしてもその先には必ず芝居があるような男だよ、銀次は」  元山さんがそう締めくくると、逃げるように一人、また一人と楽屋を後にした。巡り巡ったバトンは、こうして何一つ形が変わる事なく俺の元に帰ってきた。結局女の影はうやむやにされたままだ。余計に気になるじゃないか。全てが芝居の為……と言う事は、芝居の為に縛られているとかそう言う事だろうか。しかし舞台俳優とは言えアイドルでも何でもない銀次の恋愛事情を聞いただけでこんな空気になるとは思わなかった。 「あ、客入れ五分前だよ」  その遠山さんの声に押されるように、俺も舞台へと向かった。  しかし普段は仕事中他の事をあまり考えない質なのに、どうも胸のあたりがもやもやとする。やはり銀次の秘密が気になって仕方が無い。あの反応だと、山城さんや遠山さんは除いても、貞操新聞社から付き合いのある人は好青年を全面に押し出している銀次のアブノーマルな性癖を知っているのだろう。大人だから、人の性癖に口を出すなって事だろうか。  そもそもこの業界は見て見ぬフリをする事が多い。多いと言うより、見ても見なかった事に、聞いたとしても聞かなかった事にしなければならない。飲み屋で噂話にする事もあるが、それはスタッフ同士であればこそ。どんなに口元の緩い人でも、線引きはキチンとしている。世間一般に知られればヤバいような裏の事は、裏でのみ完結させなければならない。それこそ役者とのヤニ場での会話なんて、口外すれば大騒ぎになるような物だ。もしかして銀次のそれも、その一つなのだろうか。あの痣にそんな深い秘密が隠されてると思うと、下衆な好奇心は膨れ上がるばかりだ。
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