第二話 硝子張りの世界

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「暗くなりまあす」  舞台に響いた遠山さんの声が、思慮の深い海に沈む俺を現実に引き戻した。そうだ、仕事をしなければ。  客入れ前に必ず行われる暗転チェック。煌々と舞台を照らしていた照明が全て落ち、視界は全くの暗闇に包まれる。袖明かりの漏れなどが無く、舞台がちゃんと暗転できるかのチェック。問題が無ければ明転し、客電が上がり非常灯が点く。今回は緞帳を使っていないから、客入れ明かりを入れて作業灯が落ちれば照明は客入れ状態となる。ブースの中から送られる望月さんの大きなオッケーサインを確認し、下袖で袖中プリセットの確認をしている元山さんに声を掛ける。 「照明客入れ状態です。よろしくお願いします」  舞台監督にそう伝えた後は再び楽屋で開演迄各々好きに過ごし、開演五分前迄に俺達はピンルームに上がる。  そして五分前の一ベルが入ると共にピンの点灯。ピンスポットは放電菅だから、安定するまでに時間を要する為、五分前点灯は基本だ。ピンに問題はないか、色はちゃんと入っているか、立ち消えしていないか、何時も通り確認した所で俺はインカムのトークボタンを押した。 「上手スタンバイオッケーです」 「はい、よろしくお願いします」 「よろしくお願いします」  センターチーフである遠山さんは俺のスタンバイが確認出来てからチーフである望月さんにその旨を伝える。 「望月さん、センタースタンバイオッケーです。よろしくお願いします」 「はい、よろしくお願いします」  何事も挨拶が基本のこの業界では、こんな身内でもキチンとした礼儀、と言うのだろうか。そう言う類は決して疎かにする事はない。この一連の流れも毎公演行われるものだ。  それが終われば開演までの五分間、俺は何もせずぼんやりする事に決めている。手もと明かりもかなり暗くしているピンルームで開演ギリギリまで携帯を弄っていた事があった。その後舞台を見たら視界が完全にボヤけてしまったから、それ以来携帯を見る事はやめた。人によってはずっとインカムトークを繰り広げている場合もあるのだけれど、遠山さんは基本的に注意とキュー出し以外喋らない。俺も口数の多い方では決してないし、遠山さんとピンを振ると実は一番楽だ。何より、怖いとか煩いとか思いながらもなんだかんだ俺は彼女を尊敬している。  そんな静かな五分間を過ごし、漸く待ち兼ねた元山さんの声がヘッドセット越しに響いた。 「音響さん照明さん、間も無く開演です」  音響のヨシさん、照明の望月さんの順でスタンバイが出来ている事を伝え、再びよろしくお願いしますの応酬。そして、一間を持った元山さんが囁く。 「それでは開演します。本ベルからM0どうぞ」  重厚な鐘の音が五回、開演を知らせ低く響き渡った。本ベルが鳴り終わると、静かなピアノの旋律が流れ始める。音量の盛り上がり乗じて、望月さんの声がインカム越しに響く。 「客電アウトスタート」  客電が落ち切る迄の時間は十秒。この十秒は、何とも言えず張り詰めた物だ。言ってみればこれが入口。銀次の言う、別の世界への────。 「──落ち切りです」  今日もまた、幕が上がる。  流れ続けるピアノの旋律が波が引くように薄くなって行くと、センターにゆっくりサスが落ちる。弱い光に煌めく透明な玩具の家。首の据わらない人形を手にし、座り込む少年。一間遅れて薄らぼんやり浮かび上がる赤黒い鉄骨。 「おはよう、お父さん」  それがこの芝居、幕開きの言葉。  その日も舞台は当たり前に滞り無く進行してゆく。今回はど頭の暗転で机と椅子を持ち出す他に各場の転換なども然程ない。美しいプロローグが終わり、暗転を挟んでから明転すると、透明の机を挟んで少年と父親が朝食を食べている。まるで他人の日常を覗き見ているかのようなたわいもない会話が展開されてゆくのだ。言葉遊びを絡めながら学校の事を楽しげに話す少年と、箸を止める事もなく頷きながら、時折顔を上げて反応する父。一場は母親が存在しないこの家庭の紹介のような物。  二場は少年の部屋。一人日課である日記を書きながら、延々その内容を読み上げる。銀次はそのとんでもない長ゼリフも、自分の言葉のように繋いでゆく。独白を遠ざける最近の風潮をまるで無視して、この劇団において書かれる瀧本さんの本は独白が多い。だからこそ、銀次にしか出来ないと感じるのかも知れない。  そしてなんと六場まではこの繰り返し。その中で少しづつ、父と少年の会話と少年の独白から、母がいない理由や暗い歪がじわじわと滲んで来るのだ。そして問題の七場。俺が何時まで経っても初日が開けないと言われている場である。この場は怒涛のように展開されて行く残虐劇への足掛け。少年の中に狂気が芽生える瞬間だ。  父親の心を奪う幼い少女に向けられた物は、唯真っ直ぐな拒絶。他人の存在を悪と見なすそんな純粋な思考を表現する事は容易では無いはずだ。俺達は大人になるにつれ、他人の存在を全く否定する事を忘れてゆくのだから。だが銀次はそれを視線の動き一つで演じ切って見せるのだ。何も疑った事の無い子供のような、純粋な輝き。少年の瞳に曇りなど一点も無かった。彼はやはり、天才なのだろう。  ゆっくりと消えて行く光の中心で立ち尽くす少年。目の裏側に焼き付いたその残像は、酷く、美しい物だった。  俺は常人は思わず眉を顰めてしまうような八場以降の惨劇を見詰めながら、この芝居の意味を漠然と考えていた。  父親の心を奪う存在を悪だと認識した少年が繰り広げる純粋な殺戮劇。大人になり穢れてゆく存在を嫌い、幼い少女を誘拐し続ける父親。何時しか俗世に触れないように育てて来た自分の美しい息子にさえ、父親は穢れを感じているように描かれてゆく。   深層で大きく擦れ違う親子の愛憎劇。何処か大きく狂った歯車のまま進んで行く二人の人生。  一体この胸糞の悪い悲劇が、何を意味するのだろう。掴めない雲のような、目を背けて来た真実のようなこの芝居の意味を、俺はやはり知る事は出来なかった。 第二話・完
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