第一話 開幕ベル

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「お疲れ様でしたあ」  そこかしこから聞こえるその声に同じ言葉を重ね、慌ただしく退館準備を進める演出部をかわしながらスタッフ楽屋へと戻る。本日も無事に終わった事に安堵を覚える事も、最近は無くなった。  スタッフ楽屋にはムービングオペレーターの山城幸希さんと、この公演の照明チーフである望月拓郎さんが既に戻って来ていた。  山城さんはまだ二十八歳と若いながら、我が社のムービングのプログラミングで右に出る者はいない。適当でノリがすこぶる良いけれど、頭もかなり良い。  ムービングと言うものはざっくり言えばプログラムした通りに動く灯体の事。一般照明とは違い、光量もあるし、何より例えば違う景でイス、机、人に当てる物を一般照明で仕込むとすると、それだけで三台の灯台が必要となる。それに対しムービングは一台で済むのだ。  放電管は蒼白く、人の顔が綺麗に映えないし、情緒が無いから嫌いだと言う人もいるけれど、使い方によるんじゃないのかと若者は思ったりもする。  そしてチーフである望月さんは今年三十六歳。自分のプランも何本か抱えているし、チーフとしては評判も良い。変な所こだわりが強いけど基本的には芝居に熱くて良い人だ。  面倒臭い人は多いけれど、悪い人がいないのはこの会社のいい所だ。 「赤羽、電源二十一時四十五分ね」  楽屋の掃除をしていた俺にそう声を掛けたのは山城さん。ムービングの電源を落とすのは我が社では若手の仕事である。 「はい」  あと十五分。着替えて煙草でも吸えば丁度良いだろう。そう思って帰り支度を始めた時だった。 「お前ちゃんと芝居見てんの」 「え」  突然の望月さんの言葉に思わず手が止まる。 「銀次君が秘密知って暗転するじゃん。あれ何であんな消し方してんの」  それは確か七場の終わり辺りの話しだ。 「え、ダメっすか」 「いや、何でか聞いてんだけど」  間髪いれない詰問に、俺は頭の中で考えてみた。  『硝子張りの少年』のあらすじはこうである。  主人公である少年は、父親と二人都内の一軒家に暮らしていた。表向き母親がいない他はごく普通の家庭。少し過保護な優しい父親に、至極子供らしい息子。そんな在り来たりの家庭に潜む歪みが、舞台が進行して行くにつれて露呈されて行くのだ。  幼女趣味に走る父親。長年それに気付かない振りをしている少年。悪い事だと知りながら、少年は父がいなくなる事を恐れ脳内でその記憶を消しているのだ。だがそんな生活が一変する事件が起きる。遂に父親は秘密の部屋に少女を連れ込み、少年はそこから父親の狂気に目を向けてゆく。ある日秘密の部屋に足を踏み入れた少年は、監禁された少女を前に、恐ろしくなって部屋から逃げ出す。だが何故か部屋を出る前に一度立ち止まり、振り向くのだ。七場はそこで暗転となる。  俺は今回フォローのスキルアップの為に畏れ多くも座長をメインで取らせてもらっているから、全体フェードアウトと共に消すのだけれど、望月さんはどうやらそこが気になっているらしい。 「振り向いて、一瞬顔見せて消せって言われたんで」  特に消し方に理由は無かっただけに思わず出てしまった思い入れも何も無い最悪な答えに、望月さんは盛大な溜息を吐き出した。 「大体フェードアウトが汚いんだよお前は。あんな良い芝居をしてる銀次君を綺麗に観せてあげようとかさ、そう言う愛情を感じない」  これは毎度お馴染みダメ出しの嵐の時間だ。取り敢えず謝っていると、横から遠山さんが口を出して来た。 「ダメだよ銀ちゃん好きにならなきゃ。私だったら抜群に消すけどね。確か同い年でしょ。仲良くなっとけば。あの子若いけど良い子だよ」 「はあ……」  フォローは光を当てている人を好きにならないと上手く取れないと言うのが遠山さんの持論。遠山さん自身どんなに嫌いな役者でも、取る時は好きだと思い込んでのぞんでいるそうだ。だとしても、何で俺があいつと仲良くしなきゃいけないんだ。  そう心の中で悪態をついていると、一人の青年が突然スタッフ楽屋に顔を出した。 「お疲れ様でしたあ」  そう元気な声で声を掛けて来たのは正に噂の人。とは言ってもそれは別に珍しい事ではなく、神條銀次は毎日毎日こうしてちゃんと挨拶をしに来るのだ。黒いキャップにマスク姿。完全にもう帰る格好をしている。今日はマチソワだったから、早く帰って疲れを取りたいのだろう。  何時ものように俺は適当にお疲れ様でしたと言おうと思っていた。がしかし、脇からとんだ伏兵が現れた。 「銀ちゃん、明日ソワレ一本だしこいつが今日飲みに行こうって。赤羽って言うんだけど、同い年だよね」  そんな山城さんの余計な一言で、黒目がちな瞳が俺を捉えた。 「へえ、全然良いですよ。赤羽さん、お幾つなんですか」  蛍光灯の無機質な蒼い光さえ吸収し、キラキラと煌めく瞳を前に、俺は唐突な山城さんの提案を拒否する事が出来なくなってしまった。 「今年、二十三です」 「本当に同い年だ。じゃあ朝まで行っちゃいますか」  悪戯っぽく笑う無邪気な顔は、さっきまで舞台上で見せていた表情とは百八十度違う物だ。全く役者って怖い。 「山中で良いかな」  顔を引きつらせる俺とは対象的に、山中と言う俺達が良く行く居酒屋の名前を上げた遠山さんの顔は輝いている。 「分かりました、じゃあちょっと挨拶して来ますね」  神條銀次もまた嬉しそうにスタッフ楽屋を後にした。 「赤羽、チャンスチャンス」  何チャンスなんだ一体。変な所ノリの良い三人は無駄にはしゃぎ始め、俺は逃げるように楽屋を後にした。  舞台を突っ切って電源盤のあるギャラリーに上ろうとする俺の視界に、演出部の女性と話す神條銀次の姿が映る。何だか凄く楽しそうだ。笑いながらキャップのツバに軽く手を添えるそんな何でも無い仕草すら、輝いて見える。やはり何処か、妬みにも似た羨ましさを感じた。
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