第一話 開幕ベル

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「あれ、そう言えば今日瀧本さん来てたの」  口元に付いた泡を拭いながら、唐突に口を開いたのは望月さんだった。 「来てましたよ。全然終わらないからとか言って、直ぐ帰りましたけど」 「また本書いてるの」  驚きに目を見開いて問い掛けた望月さんに、神條銀次は少し困ったような愛想笑いを浮かべた。 「そうなんですよ。皆で無理するなって言ってるんですけどね。まあ、瀧本さんの生き甲斐なんで」  同意するように望月さんが頷いて、その後四人は瀧本さんについて大盛り上がりだった。  先程から話題に上がっている瀧本さんとは、劇団イリュミナシオンの主宰兼脚本家兼演出家である瀧本零の事である。何だかうだつの上がらなそうな、なよっとしている男なのだが、前作で有名な戯曲賞も取った事がある程の最近売れている若い劇作家である。イリュミナシオンとは別で、外部に戯曲だけを提供していたりも良くしているようだ。だからここで言う本とは、小説などではなく台本、つまりは戯曲の事である。  彼の書く本は狂気的で、何処か痛々しく、それでいて繊細で、その根底には必ず圧倒的な〝美〟が存在する。演劇雑誌に紹介される時なんかは、耽美と言う言葉を必ずと言っていい程使われている。同性愛も頻繁に登場するし、大体が思考のまだ不安定な少年少女を主軸に置いていて、結構残酷な物も多い。だが不思議な事に、エゲツないストーリーも、男同士の絡みも、飛び散る血糊も、嫌悪感を感じさせない程に美しく思えてしまう。中でもイリュミナシオン本公演用に書き下ろされる戯曲は評価が高い。それは何と無くだけれど、こんな俺でも分かる程。まるで人の精神性を穿るような詩的で小難しい言葉の羅列された彼の戯曲は、普段の俺なら眠くなるような物なのだが、神條銀次が演じるとついつい魅入ってしまうのだ。まるで彼の為に書き下ろされた戯曲。当て書きだとしか思えないし、彼以外が演じる事を許さないような物なのだ。  毒気を孕んだアングラ芝居の血脈を受け継ぐ戯曲に、ミステリアスな美貌の青年が花を添える。それがピタリと嵌り、旗上げ僅か五年で劇団イリュミナシオンはキャパ七十人にも満たない小劇場から、五百人規模のレベルで公演を打てる程になったそうだ。  そもそも瀧本さんはイリュミナシオン旗上げ前は別の劇団に脚本家として籍を置いていたらしい。そこが六年前に解散して、当時まだ駆け出しだった神條銀次と共にイリュミナシオンを立ち上げたと言う話しは噂で聞いた事がある。どちらにしても瀧本さんの本も演出も、俺には少し高尚過ぎて付いていけているかといえば、そうでもないのが本音ではあるけれど。  盛り上がる四人をぼんやり見詰めていると、不意に神條銀次の携帯が鳴った。 「あ、すみません、ちょっと……」  そう言って慌てて店の外に走る背中を見送り、望月さんは何やら感慨深く頷いた。 「銀次君も大変だよな。瀧本さん捻くれた子供みたいな人だしさ」 「ああ、なんか絵が浮かびますね」  山城さんが何時ものようにゲラゲラ笑い、遠山さんも手を叩いて笑っている。完全に俺には何の事か分からない。ぼけっとその様子を眺めていると、それに気付いた遠山さんが爆笑の理由を教えてくれた。 「一緒に住んでるんだよ、あの二人」  あの二人──? 「え、そうなんですか」  予想外の事実に珍しく思わぬ大声が上がってしまった。 「銀次君の両親が田舎に引っ込んじゃったからね。赤羽も知ってるだろ。銀次君の父親、神條真さん」 「神條、真……」  それが余りにも有名な名前で、驚き過ぎた俺は危うく息も止まり掛けた。神條真さんとは、海外にも名の知れた日本を代表する舞台美術家だ。結構年はいっている筈だが、まさかそんな大物の息子だったとは。DNAって狡い。 「この業界金にならねえしなあ。特に役者で食って行くのは大変だよな」  望月さんの夢の無い言葉に、俺達は深く頷いてしまった。  どこも劇団員なんて殆どがバイトと芝居の二足草鞋。業界では有名な劇団でもノルマは当然あるし、若手は特に厳しいらしい。かといって芽が出る役者なんてほんの一握り。大体が三十前後で見切りを付けて違う道に進むのだ。好きじゃなきゃ続かない上に、好きでも続かない。華やかな世界の裏側には、想像以上に厳しい現実がある。  何だか無駄にしんみりした頃を見計らったかのように、神條銀次は慌てて戻って来た。 「すみませんでした」 「瀧本さんだったの」 「そう、何か全然手が進まない上にお腹すいたとかで機嫌悪くって。サンドバッグの帰還を待っているみたいです」  少しむくれてそう言うと、神條銀次はジョッキに残っていた三杯目の酎ハイを一気に流し込んだ。 「よし、じゃあ帰るか。明日もあるしな」  大方一人で先に帰るつもりだったのだろう。同じようにジョッキに残る酒を一気に流し込む望月さんを神條銀次は驚いた顔で見た。 「何かすみません……」  本人は申し訳なさそうに頭を下げてはいるが、俺としては有難い事この上ない。今日は終電前に帰れるんだから。
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