第一話 開幕ベル

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 そんな苦労も知らず、銀次はまるで夢見る少年のように瞳を輝かせて言葉を続けた。 「だって、役者と一番呼吸を合わせるポジションでしょう。ピンが当たっていると、この人は芝居を見ているなって分かるもん」 「へえ……」  確かに、金の無い劇団はスタッフを雇えず、劇団員の役者がフォローに上がる事もよくある事で、遠山さんが前に言っていたが、彼らのフォローは秀逸らしい。さすがに細かい技術面は素人ではあるけれど、出し方、消し方、明るさや細部まで芝居を感じていて、ちょっとの手ブレなんかどうでもいいと思える程上手いそうだ。小手先の技術などではなく、上手いピンはそう言う物だと皆良く言っている。芝居は生もの。毎日同じ事なんか無い。だからこそ役者と共に舞台に立っていなければ、どう足掻いたって上手く取れない……らしい。未だ正解が分からない俺は、そんな精神論信じてはいないけれど。何より元々芝居に興味の無い俺は、いまいちその芝居心からまず分からない。そりゃあ毎日同じ作品を見ていれば、今日は良かった、今日はいまいちだった位は分かる。けれど何処がどう良かったか聞かれても首を傾げてしまう。俺の芝居への知識と感性はその程度なのだ。何時までも怒られるだけの理由がそこにある気がして思わず歩みが止まる。別に、俺だって上手くなりたくない訳じゃない。どちらかと言えば褒められて伸びる方だし、何より、負けたくない。俺と同い年で、光の中心にいるこいつに。  立ち止まった俺と共に足を止めていた銀次は、何故かふと小さく笑った。何かと思って視線を投げると、少しつり目の漆黒の瞳が、俺を真っ直ぐに射抜いていた。 「徹さ、俺の事好きじゃないでしょう」  薄い唇から放たれた予想外の言葉に背筋が粟立った。ただ光を当てられているだけで、そんな事までバレるのか。いや別に嫌いな訳じゃない。ただ好きになれないだけで、何と言うのだろう。八つ当たり……そう、これは八つ当たりだ。何とか取り繕おうと思い落とした視線を上げると、銀次は何故か吹き出して笑った。 「いや、直ぐに否定してよ」 「えっ」 「何だよ冗談だったのに、傷付くなあ」  悪戯っぽく肩を竦め歩き出す背中をぼんやり見送る。冗談である事にホッとしたものの、何だかそれを鵜呑みにするのも危険な気がした。やはりあれは油断ならない男だ。疑心暗鬼に駆られた俺があとに続いて歩き出すや、銀次は再びくるりと向き直った。 「あれって俺でも触れたりするの」  唐突な問いに一瞬思案したものの、直ぐにあれと言うのはフォローの事だろうと勘付いた俺は思わず眉を顰めた。 「触りたいの」 「うん」  俺の心とは裏腹に、少年のように瞳を輝かせての即答。触らせるのは俺のピンだし、別に問題は無いとは思うが。 「遠山さんに聞いてみるけど、ピンチェックの時に一緒に上がれば多分」  若干引き気味にそう答えると、銀次は小さく飛び跳ねて喜んだ。そんなに嬉しいものなのだろうか。熱いし無駄にデカイし目が疲れるし、毎日触っているこちらとしては、慣れてしまって最早ピンルームに上がる事すら憂鬱なのに。  ぼんやり歓喜の小躍りを見詰めていると、銀次はふと動きを止め、少し考える仕草を見せた。 「じゃあ、明日は十八時開場だから、照明チェック終わって……十七時前位かな」 「詳しいね」 「照明チェックの時俺客席で何時もアップしてるじゃん」  にしても詳しすぎるが、むくれる銀次が再び歩き出し、俺もまた止めた足を踏み出す。  薄闇の向こうに、漸く小さなバス停が見えて来た。間も無くこの訳のわからない深夜の散歩も終わりを告げる。俺はついさっき犯した失態をどうにか取り戻そうと頭を巡らせた。 「あのさ、嫌いな訳じゃないんだけど、何か子役上がりって良い噂聞かないじゃん。ちょっと警戒してた」  嫌いではないんだと言う事だけでも伝えたくて出た言葉。きょとんと俺を見ていた銀次は、直ぐにふわりと笑った。 「映像と舞台は全然違うよ。大体俺、子役上がりじゃないし」  可笑しそうに笑う表情に、何だか酷く安堵した。芝居は天性の物で、やはり純粋な良い奴なのかも知れない。そう思った時だった。  でもね、と小さく呟くと、不意にまるで大都会に落ちる闇夜を閉じ込めた瞳が俺を捉えた。 「俺だって、イイコじゃない」  そう囁いて向けられた不敵な笑みは、まるで毒沼のように深い。本日何度目かのゾッと背筋を寒気が駆け抜ける感覚に、俺は小さく身震いした。きっとほんの数秒の出来事。それでもまるで時が止まってしまったかのように、俺も銀次も動かなかった。  遥か遠くで響いた軽いクラクションの音が、そんな俺達を現実に引き戻す。 「あ、バス来た。じゃあまた明日」  手を振って走り去る背中に、手を振り返す事も出来ず立ち尽くす。  一体何なのだろう。少年のように無邪気で、でも何処か大人びた影があって、掴み所がまるでない。くるくると表情を変える人懐っこい彼の内に潜む何かを、その時ほんの少し覗いてみたくなった。基本的に無気力で無関心な俺にすら、知りたいと思わせる何処か歪な魅力。そんな神條銀次の天性の魔力に引き寄せられるかの如く、脳の何処か遠く、開幕のベルが静かに鳴り響いていた────。 開幕ベル・完
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