第二話 硝子張りの世界

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第二話 硝子張りの世界

 次の日、俺は何時も通り入り時間三十分前に小屋入りした。着到板は制作チームの他は皆赤文字。赤羽徹の札をひっくり返し、作業着に着替えた後はだらだらと楽屋周りのセッティングをする。セッティングといってもコンビニ袋で簡易ゴミ箱を作り、ポットにお湯を入れて灰皿を持ってくるだけの簡単な物だ。だがこの準備を怠ると、厳しい人には白い目で見られるからバカには出来ないのだけれど。  そうこうしている内に続々とスタッフ陣が着到した。 「おはようございます」  舞台監督の元山さんに挨拶すると、柔かに右手を上げてくれた。 「おはよう。何時も関心だなあ。赤羽君てチャラついてそうで実は真面目だよな。幸希なんて若い頃飲み過ぎて何時もギリギリだったのに、なあシンさん。懐かしいよなあ」 「ああ、そうだったなあ」  二人はそう言って思い出話に花を咲かせた。元山さんが話しを振った人は演出部のおっさん、山田進次郎さん。元山さんが舞監をする時は必ず演出部として呼ばれるそうだ。寡黙で真面目な昔気質の舞台人。  幸希こと山城さんは新人の頃はそれはもう大変な輩だったらしい。前日に飲み過ぎて着到滑り込みなんてしょっちゅうだし、未だに楽しければ何でもオッケーで、ノリが全ての何とも大人気ない大人である。これで仕事が出来るんだから憎い。 「おはようございまあす」  続いて着到した遠山さんは、俺を見付けるや嬉しそうに駆け寄って来た。 「仲良くなれた」 「はあ、まあ」  仲良くなれたのかは分からないけれど、まあ今迄よりはマシだと思う。歯切れの悪い俺の答えに眉根を寄せ、遠山さんは着替えを持って楽屋を去ろうと踵を返した。ふと昨日の約束を思い出し、俺は慌ててその背中に声を掛ける。 「あ、遠山さん。今日銀次……君が、ピンルームに上がりたいって言っていたんですけど」 「良いよ良いよ。好きにして」  気前良く返事を返すと、少し小さな背中は直ぐに見えなくなった。遠山さんはこう言う小ざっぱりした所は楽で良い。  それから望月さん、山城さんと順当に着到を終え、俺達は時間となったので舞台へと向かった。初日が開けた後の仕事始めはムービング用の200V仮説電源を入れる。後は退館時に抜いた細かい雑電系の結線をするだけ。キャリブレーションと呼ばれる初期動作が終わるのを待って、卓にいる山城さんにそれが終わったと声を掛けた後は三人舞台上で談笑タイム。ムービングチェック中働いているのは山城さんだけで、俺達は変な音や挙動をしている灯体が無いか舞台上でぼんやりと見守る事しか出来ない。  そんな何時も通りのチェック時間中、遠山さんと望月さんが仕事の話しをしている傍ら、俺は何となしに忙しなくムービングがチェックキューを走る舞台を見回す。  今回は舞台奥間口一杯に赤錆の浮いた鉄骨の橋と言うべきなのか、骨組みだけの二階屋が組まれていて、後は特に目立ったセットはなく、持ち出しの机や椅子などは透明なアクリル板で出来ている。床は黒リノにこれまた乱雑に赤錆色を塗った、まるで血を彷彿とさせる少し不気味な物で、舞台を飾る額縁も奥にある物と同じ赤茶色の鉄骨。朝チェックの時は小道具も何も無く、剥き出しの鉄骨がぼんやりと赤く浮かび上がっているだけ。日常の中にある異質や、何処か退廃的な色香の漂うセットは、今回の舞台美術家の味と言うよりは、瀧本さんの好みらしい。  この芝居において、この赤錆の浮いた鉄骨のセットはと言うと、少年の〝生活〟を眺める人々の世界である。……まるで雲を掴むような説明だと思うが、俺も良くわからないから仕方が無い。少年には鉄骨の上の人々の姿は見えていないようで、別世界なのかなと言う漠然とした捉え方しか出来ない。鉄骨側の人々は、芝居中は勿論の事、客入れ中もそこを行き交ったりする。台本に書かれている台詞は一切無いが、皆それぞれ動物園の動物でも見るかのような自然な芝居をしているのだ。勿論それも演出の一つではあるのだけれど──これが少年の夢なのか、はたまた何かの実験なのか、劇中劇なのかすら、結局幕が下りても明かされる事は無い。はっきり言って俺は終わると酷くもやっとする。この芝居は一体何なのか、何を伝えたいものなのか、まるで分からないからである。
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