第二話 硝子張りの世界

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 そんな事をぼんやりと考えている頃だった。 「おはようございます」  下袖からとびきり元気な声が聞こえ視線を向けると、演出部のおっさんと熱い抱擁を交わす銀次の姿が映る。おっさんとのハグが終われば小道具を整理していた女性ともハグ。銀次が取るあの面倒臭いスキンシップも、根暗な芝居とはまるで真逆ののほほんとした雰囲気も何時もの事。この辺りでムービングチェックが終わり、照明チームは一般照明のチェックに移るから俺が捕まる事は無い。  客電と作業灯を完全に落としていつも通りの一般照明チェックが始まった。球切れが無いか、当たりが動いていないかを一つづつ見ていると、袖での戯れ合いが終わった銀次がこそこそと暗い舞台に姿を現した。 「おはようございます」  少し控えめに声を落とし舞台の端を抜けた小さな背中は、舞台ツラまで辿り着くと二の足を踏んでいる。たまたま単サス系が続いているお陰で、暗過ぎて足元が見えないらしい。それが何時もの事なのか、俺は大概興味が無いと視界に映らないから分からないけれど。今回芝居中で役者が客席を使う事が無いから階段は取り外されている。高さは三尺程あるし、暗い中飛び降りるには多少の勇気がいるのだろう。遠山さんが送りに入っている時は、やはり気配り上手なだけに客電を薄っすら上げてあげるのだが、山城さんにそんな繊細な優しさは皆無である。仕方がなしに常時首に掛けているライトで照らしてやると、しゃがみ込んでいた銀次は驚いた顔で俺を見上げた。 「ありがとう」  そう言うと何を思ったのか、銀次は立ち上がり腕を一杯に広げた。笑うと何とも愛らしい少年のような風貌の癖に、まるで俺の胸に飛び込んで来いとでも言わんばかりの男気を感じる。大方他のスタッフとしているスキンシップを求められているのだろうが、無駄な外人ノリに思わず溜息が漏れた。 「……しないよ」  遊んでいると怒られるし、何よりこれが女優や年下のまだ可愛い盛りの子役ならまだしも、相手は同い年の男。何も楽しくない上に、相手が銀次だからこそ無駄にいかがわしい匂いがする。いや、そう言う気持ちは全くない。俺は勿論、銀次にも。その証拠に、演出部のおっさんにするのとなんら変わりの無い爽やかな笑顔が終始向けられている。 「こうやって距離を縮めないと」  別にこんな事をしなくても距離は自然と縮まる物なのではないか。……どうしたもんか。 「何照れてんだお前」  唐突に背後から掛けられた声に振り向くと、チェックそっちのけで望月さんと遠山さんが俺達のやり取りを眺めていた。 「逆に怪しい」  遠山さんが半笑いで呟いた言葉に思わず眉間に皺が寄る。何が怪しいんだ。何も怪しい事はない。でも確かに、演者、スタッフほぼ全員と開演前に抱き合うと言う珍妙な儀式をしている銀次を拒絶するのも何だか自意識過剰な気がした。それにこの後は音響チェックの時間。野次馬が増えても困る。仕方が無く早く済ませてしまおうとは思ったものの、俺が抱き寄せるのも何だかアレだし……。考えた末、同じように腕を広げると、直ぐに銀次は腕を首に回して抱き付いて来た。 「今日もよろしくお願いします」  余りにも爽やかにそう言い放った彼の髪から、異様に良い匂いがする。初恋の人の髪の匂いに似た、仄かながら嗅覚の全てを虜にしてしまうような、そんなあまい香り。そんなどうでも良い事で固まる俺へ、強い光が一つ、また一つと集合して来る。俺と銀次の抱擁が、見世物よろしくサスに吊られた無数のムービングライトによって煌々と照らされる。 「いや、当てないでもらって良いですか」  客席奥にある照明ブースに向かって少し声を張って文句を投げると、薄暗いブースの中で肩を揺らして笑う影が見える。悪ノリも良い所。仕方なしに早く終わらせようと腕を回した頃には、集光したムービングがドギツイピンクになっていた。 「おお、エロピンク」  そんな事で感心している場合じゃない。望月さんに一瞥くれて俺は腕を解いた。 「もう、ちゃんと働きましょうよ」  その後銀次は平等に望月さんと遠山さんとも熱い抱擁を交わし、客席の暗闇へと消えて行った。望月さんがチェックを再開した横で、遠山さんが興奮気味に俺の肩を叩く。 「めっちゃ良い匂いしたね」  確かに良い匂いはしたけれど、そんな興奮気味に話す事でも無い。生返事で答えていると、遠山さんは詰まらないといった様子でそのうち黙ってくれた。
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