1初めての好敵手

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 彼の名は一ノ瀬弓月。天才 SE と名高い希美が、いつか会ってみたいと思っていた相手だ。 最終学歴は最城高校、有名大学進学率の高さを誇る公立最高峰の高校を卒業したにもかかわらず、卒業後はすぐに零細 IT 企業へ就職。経済的な理由だったのか、他に理由があったのか、細かいことは分からない。しかし、無名企業に所属するにも関わらず、弓月の名は、 SIX STORY の天才 SE、佐倉希美の名と同じくらい業界に知れ渡っていた。  システムクラッシャーと異名を持つ彼は、どんなシステムもプログラムも完膚なきまで破壊するハッキングの天才らしい。「彼に壊せないシステムは無い」という類の噂話を、希美は同業者からよく聞いていた。その話が彼女の興味を惹きつけたのは、言うまでもない。 希美もまた、彼女の所属する SIX STORY の人間が、「うちの佐倉が本気で作ったプログラムを、破ることができるハッカーは居ない」と言って誇る技術者である。  誰にも破れない希美のプログラミングと、壊せないものなどない弓月のハッキングの矛盾。二人の天才がお互いの存在を意識するのは、避けようのないことだった。  そして、ついに今日。希美が初めて対面した噂の天才ホワイトハッカーは、まるでその風格を持っていなかった。第一印象は穏やかな好青年。春の陽気のようにふわりとした雰囲気を纏った彼を見た時、希美はなんだか拍子抜けしたのである。彼に、自分のプログラムが壊せるとは思えない。所詮は、零細企業の中のエースだというだけだったのか......。 「あなたになら、壊せる?」   それでも、わずかな期待を込めて聞いた希美。 「壊すって......PCのことですか?」  弓月の答えは、全く容量を得なかった。彼には希美が、ハンマーで自分のPCを壊せなどと初対面の相手に頼む人間に見えたのだろうか。多少呆れて苛立ってしまう希美だったが、 すぐ後に彼が言った「15 分、頂ければ」という言葉には、思わずハッとした。  その瞬間、弓月は突然変わってしまったのだ。今目の前で PC を操っている弓月は、さっきまでとはまるで違う。例えるなら冬の冷たい外気のように、研ぎ澄まされた冷静な視線。 希美の手は、すっかり冷たくなっていた。彼を包み込む雰囲気に当てられたのかもしれない。頬は火照って熱いのに、なぜか手が震えてしまう。恐怖、緊張......これは一体何の感情だろう。それは、希美が感じたことのないものだった。 (15 分って......これは、本気のプログラムじゃないけど......それにしても舐めすぎでしょう......)  昨日 SIX STORY 技術班の同僚にやらせた時は、優に二時間かかった。それは大体希美が想定した時間で、彼女は満足していたのである。 (もし、このハッカーが一時間以内で本当に破ってしまったら......)  希美は、思わず唇を噛む。彼女は、弓月から目を離さなかった。素早くキーボードの上を動く彼の手をじっと見つめていた。一瞬なようにも、すごく長い時間が経ったようにも思える。真剣になりすぎて、時間感覚すら失い始めた頃、弓月が静かに「終わりました」と呟いた。  希美は思わず息を呑んで、壁にかかった時計を見る。弓月も、その視線を追って時刻を確認する。次の瞬間、二人は同時に、 「嘘でしょ」「嘘だろ......」  と放心したような声を漏らした。 時計の針は、弓月が作業を開始した時と、ほぼ反対側にある。 つまり、30 分が経過していたのだった。 「私のプログラムを、たったの 30 分で破るなんて......」 「僕がこんな単純なプログラムに、30 分も使ったのか......?」 しん、としたオフィスを支配するのは、二種類の驚愕。しばらくして、二人はハッとお互いを見た。初めに表情を崩したのは弓月だった。弓月は、突然笑い出した。初めはふっと微笑んで、次には声を立てて。 「あはは、参ったなぁ......見込みが狂いましたね。初めて負けてしまったかもしれない」  笑いながらそう言う弓月は、心底悔しそうで、でもなんだか楽しそうだった。希美は浅い息をついて、肩の力を抜く。そして、弓月に釣られるように微笑を浮かべた。 「いいえ、負けたのは私です。いくら手抜きのプログラムとはいえ、一時間以内で破らせる気はなかったのに......」  負け知らずだった天才たちが、初めて味わった敗北。それは、苦いのに、なぜだか嫌いに なれない不思議な味がした。
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