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last drip
もう二度と、この家に戻ってなんかこない。
そのつもりで荷物を片付けていたら、ゴミ袋があっという間になくなった。
引っ越し準備が終わるまで、家から出ないつもりだったけれど、昼過ぎには駅前のコンビニへやってくる羽目になった。
祖母も両親も、仕事や用事があって家にはいない。昼食はひとりだ。今から一人分作るのは面倒くさい。
飲食店で済ませるのも気が乗らなくて、結局、コンビニで買ったおにぎりを食べ歩きながら帰ることにした。
「……どうなったかな……」
ゴミ袋入りのエコバッグを提げている手で、スマホを取り出す。
SNSで、「last」のアカウントを検索した。昨日の朝9時の投稿が最新だ。先着無料キャンペーンのやつ。
何も書き込みがなくて、ほっとしたような、残念なような。
変な噂を立てられ、家族にうるさく言われる展開が一番嫌。それさえ避けられれば、いい。
ふっと息を吐いて、顔を上げる。駅前広場を出ようとした時、脇から「すみません!」と一言差し込まれた。
「昨日、うちに来てくださった方ですよね!?」
汗で前髪を額に張り付かせている男性が、そう尋ねてくる。
声でわかった。「last」の店員だ。エプロンを着ていないから、見た目じゃ判断がつかなかった。
人違いだとは言えない雰囲気だ。気まずいにもほどがある。
「……そうですけど、なんですか。何か文句でも」
「少しお時間頂けませんか! というか、店に来てもらえないでしょうか! お願いします!」
白昼堂々、駅前で頭を下げられる。男性は腰を深く折りすぎていて、もはや土下座に近かった。
交通量は無いに等しいとは言っても、ゼロじゃない。事件や噂に飢える人たちの目に、触れさせていい光景のはずがない。
「いや、ちょっと、困りますって」
「昨日の夕方からずっと、あなたを探していたんです! 五分だけでもいいので! 本当に!! コーヒーをお出しさせてください!」
「わかった! わかりましたから! さっさとしましょう!」
エコバッグを肩にしっかり提げ、小走りで駅前を後にする。
男性は泣きそうな声で「ありがとうございます!」と三回繰り返してから追いかけてきた。
坂の上の店へ着く頃には、すっかり息が上がって、体温も上がって。あたたかいコーヒーを飲みたい状況ではないはずなのに、漂うにおいに包まれると、その気になってきてしまう。
「さあどうぞ!」
扉には「close」の文字プレートが下げられていたが、男性に促されるまま中へ。祖母が見たら、「未婚の女が、男の家に一人で入るなんて!」と目を回しそうだ。
おかしくて口角が震える。靴を雑に脱ぎ捨て、廊下をずんずん進んだ。
開いた扉の向こうに先客はいない。
「あのひとたち、今日はさすがにいないんですね」
「……ほんと言うと来たがってたんですけど。親父が……あ、店主は俺の父親なんですけどね。父が断って、死ぬ気でよそへ連れ出しました」
「えっ」
「なんか、思うことがあったみたいで。あなたを見つけて、お詫びして、コーヒーをお出しするようにと言われまして。『開店したばかりの頃に来てくれた人なのに、とても悪いことをしてしまった』と。直接謝りたかったようなんですけど、そういう事情で来られません。……父の分もお詫びします。申し訳ございません」
昨日と同じ席へ通される。「急いで準備します」と、男性がキッチンに消えていくと、静かすぎて息の仕方にも戸惑った。
実は初めてここへ来た時も、客は私一人だった。二回目もか。店主がキッチンでコーヒーを入れる音、洗い物をする音、食器を出し入れする音。一つ一つを耳で楽しんだ。
三回目も、そうできると思っていたのに。あの四人組に出会したのだ。話し声が、大学の食堂にいる時よりうるさくて、ここは居酒屋かと錯覚したくらい。
私に構わず、「近頃の若者は学がない」だの「将来有望な若者を見かけない」だの、好き勝手に言い合っているから、嫌になって店を出た。
まるで、人の家のリビングを覗き見たようというか。私が異質な存在だったんじゃないかと、本気で疑った。
でも、そうか。あの店主は、私を覚えていてくれたんだ。
心が少し、スッとした。おかげで今日は音も香りも、どちらもよく聞こえるよう。
「大変、お待たせしました!」
木でできた、縁だけが赤いカップが目の前に置かれる。なみなみ注がれた、黒々としたコーヒーの表面に映る私の目は、やっぱり笑っていない。
「うち特製の『ラストブレンド』です」
さすがに、また「いらない」とは突き返せない。
大人しく一口含んだ。おいしい、のは知っている。口当たりが良くて、まろやか。苦いようでいて、喉に残るのは甘さ。味に層があって、どれもこれもがしみいってくる。
だからこそ、悲しくもなる。
「おいしいですね。ここの常連になりたかった」
素敵な味わいを堪能したばかりの口で、恨みがましい一言を放つのはもったいない。そうとわかっていても、なかなか難しい。
男性は眉を下げて「本当にすみません。悪い人たちじゃあ、ないんですけどね」と答えた。
「みんな、父の幼なじみたちなんです。父は大のコーヒー好きで、若い頃から喫茶店をやりたかったみたいで……。定年退職して地元に帰ってきた時に、人生最後の夢、叶えてみようって思ったみたいで」
「そうですか……」
「昨日、あなたに失礼なことを言ったおじさん、いたでしょ。元々、あの人名義の家土地なんです、ここ。色々と融通してもらいすぎちゃったから、毎日入り浸られても、僕らもあまり強く言えなくて。ダメですね。確かにリピーター来なくて、ほぼ通販でしのいでました。ご指摘が刺さりますよ」
コーヒーを慌ててもう一口飲んだ。鼻の奥がじんじん痛むのを、ごまかしたくて。
店を持つのに、お金も場所もいるのはわかる。全部、自力で調達するのは大変だろうし、助けてくれる人や厚意をむげにする必要はない。
だからといって、良くしてくれた身内を露骨にひいきするのは、おかしい。
ただ、そうだとしても、私が昨日ぶつけた言葉は、過ぎた表現だった。
きっとそんなことは、あの店主が一番、よくわかっていたのに。
「ああ、すみません! こんな話、お客さんに聞かせることじゃなかったな。コーヒー、遠慮せず飲んでください」
「閉店しちゃうの……もったいないですね」
この一杯を飲みきってしまうのが、もったいない。
思わず呟くと、男性はきょとんとした。すぐに、にっこり微笑む。
「そう言ってもらえてうれしいです。実は、移店するっていうのが本当のところで。『last』って、『最後』以外に、『続く』って意味もあるのでね」
「どこにお引っ越しするんですか?」
「東京です。と言っても、ワゴン販売から始めるんですけどね。都内のあちこちを、ぐるぐる巡る予定です。たまに、親父も乗せて」
その瞬間、頭の中でもやもやしていた「東京」のイメージが、ぱっと鮮明になった手応えがあった。
きれいなビルで働く私の姿はまだくっきりしないけど、仕事の合間に「ラストブレンド」のワゴンを探して走る姿は、不思議と浮かぶ。
コーヒー目当ての上京も、悪くないんじゃないか。何の理由もないより、断然。
「自分、東京にある飲食店で働いているので、色々と資格は持ってるんですよ。親父の店が、あんまり上手くいってないって聞いて、一年くらい前からたまに様子見に来てて」
「ああ……なるほど」
「ここいらの水がおいしいっていうのを抜きにしても、親父が考えたブレンド、なかなか評判いいから東京でも通用すると思うんですよね。だから、自分がちょっと、バトンを勝手に託されちゃおうかなと」
にっ、と笑った男性が「というわけで」と言いながら、ポケットをあさる。
出てきたのはアメ、ではなく、ドリップバッグが付いた一枚のチケット。コーヒー一杯無料券だ。
「新生ラストブレンド、いつか飲みに来てください。東京、ちょっと遠いけど。あ、メニューをいくつか増やすので、ホットコーヒーじゃなくてもいいです よ」
差し出されたチケットを、ありがたく受け取る。裏面に、新宿駅周辺の地図と、周回ルートが載っていた。「いつから販売し始めますか?」と聞けば、男性は「準備があるので、一ヶ月後くらいには」と頷いた。
「わかりました。今度こそ、常連になれますように」
願いを込めて、ぐっとカップを傾ける。
この一杯も、私も、明日へと続くから。飲み干してしまうのはもう、惜しくなくなった。
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