first drip

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first drip

来週、上京する。理由はない。大学に入ったときと同じだ。そういう年になったから。 平たく言えば、就職が決まった企業が東京にあるから。これを「理由」とするのはひっかかる。 「まあ、沙智ちゃん! 顔見せてくれてありがとうねえ。もうすぐ東京行くんだって? お母さんから聞いたわよ」 コーヒーを運んできた店員に、いきなり話しかけられる。幼稚園から中学まで一緒だった子のお母さんだ。黙って会釈。 ここのカフェのオーナーは、別の友達のお父さん。厨房では、私の親戚の親戚が働いていると聞かされたような。もはや他人。 なのに、両親にだけしか話していないことが、いつのまにか色々なところに知れ渡る。ちょうど今みたいに。 誰かの噂話でしか、日々を潤せないなんてさびしくないか。 ーー言っても無駄だから、やっぱり、黙って会釈。 「ゆっくりしていってねぇ。良子とも、たまには遊んであげてちょうだい。昔みたいに!」 ポケットから出したアメを置き土産に、おばさんは仕事に戻った。 私も、視線を窓の外へ戻す。 観光地にはほど遠い、片田舎の駅前広場。休日の15時なのに、人通りはまばら。タバコのにおいがしみついた店内に、お客さんは数えるくらいしかいない。 家にいると息が詰まるから、学生の頃からよくこの店で勉強した。消去法で、ここしかなかったから仕方なかった。行く宛てに困るのは、今に始まったことじゃない。 卒業したばかりの大学は、ここから電車で二時間半。一人暮らしできると思ったのに、同居の祖母と両親から猛反対に遭った高三の冬が懐かしい。 「結婚前の娘が一人で生活するなんて、とんでもない」。三対一は、さすがに分が悪かった。 四年間、実家から通う羽目になったせいで、アルバイトもサークルもゼミも、一度もできなかった。思い出は全て、家と大学の間にある。 遅い時間に始まる講義がある日だと、急いでも門限の21時に間に合わなかった。帰りが遅くなると祖母が玄関前に立っていて、やれ「男ができたか」、「結婚できるなら、卒業と同時がいいね。仕事より、家に入って家事育児」なんて言う。 これは全て、明治や昭和ではなく、令和の話だ。おそろしい。 でももう、今週でそれも終わり。 家から通えると思えない場所にある勤め先なら、どこでもよかった。東京にこだわりはない。仕事内容も、まあ、あんまり残業がないものならなんでも。 明日からは引っ越しのための準備で本格的に忙しくなるから、のんきにコーヒーなんか飲みに来られないだろう。 となると、地元での最後の一杯になるかも。 「なんの感慨もないな……」 場所代がわりのコーヒーをあおる。家で淹れるインスタントと同じ味がするのは、きっと気のせいじゃない。 「あーっ」 窓の向こうから、子どもみたいな声が響いた。ふと顔を上げて見たときには、誰もいない。でも、嫌な予感。 思わず入り口を振り返る。古いせいでガタつくドアが、無理やり押し開かれた。 「ママー、沙智いるじゃん! なんで教えてくれないのぉ」 良子だ。帰ろう。 テーブルに、コーヒー代600円を置いて立つ。入れ違いで向かいの席にどっかり座った良子が、短い手足をバタつかせて「沙ー智ー!」と叫ぶ。 また少し、肥えたかも。いつも履き倒しているデニムスカートが、結構きつそうだ。 「聞いたよ、東京行くんだって? いいなあ~。私、春からここでバイトだよぉ。家に泊まりに行きたいから、住所教えて!」 「落ち着いたらね」 「えー、いつー?」 「わかんない」 「ひどーい。良子だって忙しいんだよー? なかなか予定合わなかったらどうすんのー?」 無視して店を出る。呼んでもないのに、良子はついてきた。昔からそうだ。 そして確かに、最近の彼女は忙しい。主にパパ活で。 出張で駅近くのビジネスホテルにやってくる、どこかの男たちを「健全に接待している」らしい。なかなかもうかっているのが、わがままボディから見て取れる。 「いいもん、沙智が構ってくれなくたって。この後、リピーターパパさんが東京から来るの、相手してあげなきゃいけないし」 「精が出るねー」 「沙智はどっか行くの?」 関係ないでしょ、と言うのも面倒くさい。 宛てはないので、駅前を出て、家とは真逆へ適当に歩いた。通い慣れた道だ。 にわかに視界が開ける。遠くに山、手前に林、それ以外は全部、畑。あとたまに民家。 よく言えば、「田園風景」だ。五分もしないうちに良子は飽きるだろう。 思ったそばから、背後で「こっち、畑以外なんもなくなーい?」と声が上がる。 「あ、でもぉ、古くさいカフェがあったっけ」 そういえば二年前くらいに、この先の坂の上にオープンしたのを見つけて、三回は行った。 空き家をリノベーションしたのか、玄関や廊下がそのまま残っていて、生活感がにじみ出ていたし、見た目もボロかったけど、内装は和モダンでおしゃれだった。天井も床も壁も、黒か焦げ茶に統一されていて、家具や茶器だけが鮮やかに色づいていたっけ。 コーヒーもおいしかった。店主は、おじさんと、おじいさんの境目みたいな白髪交じりの男性で、この辺りではあまり見かけない人。 清潔感があって、言葉寡ななのが好印象だった、のに。 私は、常連にならなかった。 「へー、今日で閉店じゃん」 小走りで隣に並んできた良子に、スマホの画面を見せられる。SNSのアカウント情報だ。 そうだ確か、店の名前は「last」。 「しょぼいフォロワー数だなあ、ウケる。通販やってんだ、売れてんのかな……あ、ほら、見てよ。最終日記念、先着10名様までコーヒー無料キャンペーンだって!」 良子が、いきなり背後に回る。ぐいぐいと、背を押される。 「行ってみようよ。あんなとこ、10人も来てないって!」 「ちょ、危ない! もう!!」 本気で怒ったのに、良子には「こーわーいー」と笑顔でかわされた。押してくる力は緩まらない。 無理やり振り払ったら、良子は「きゃー!」なんて騒ぎながら、走っていってしまった。来た道を戻りたい。 だけど、少し、気になる。 あのコーヒー、おいしかった。閉店前にもう一度飲めるなら、と思うと揺れる。 迷った挙げ句、歩き出す。良子はもう、坂の中腹にいた。距離はないが、勾配がそこそこある。 弾みをつけて、駆け足で後を追う。坂の上に立つ、ボロい一軒家が少しずつ迫ってくるにつれ、コーヒーの香りが手招くように強まる。 最後に来たときと比べて、外観に違いはない。木造の、こぢんまりした平屋だ。 開きっぱなしの木の扉を抜けると、目の前に立っていた良子が「えーっ」と非難めいた声を出した。エプロンをつけている若い男性が「ごめんなさい」と、申し訳なさそうに頭を下げる。 「無料分はもう終わっちゃって」 「それならあたしはいいや。じゃーね、沙智」 私を押し退け、良子は外へ出ていった。引き留めるわけがない。良子退散。 扉を閉めると、男性が「あの」と声をかけてきた。この前は見なかった店員だ。 というか、こんな田舎にいないタイプの人間だ。髪は茶に染めているし、たぶんうっすら化粧もしている。肌も白くてきれいだ。良子がよく「都会の最新ファッション」を取り入れていると自慢してくるけど、「垢抜けている」ってこういうこと。黒いワイシャツにエプロンだけで、じゅうぶん決まっている。 「もし、有料でもいいなら、ご用意できます。三百円。ホットのみなんですけど。ちょうど最後の一杯で」 「……じゃあ、頂きます」 「ではお席へどうぞ」 玄関で靴を脱ぎ、店員の後について廊下を歩く。人の家に来たみたいな、妙な緊張感がある。 私以外に、客はいないのだろうか。いてくれた方がありがたいようなーー 「おっ、戻ってきたか! テッちゃーん、注文頼むわー。ブレンド一杯追加!」 廊下の果てにある扉をくぐった途端、前言撤回したくなった。部屋の奥にある、四人掛けのテーブルが目に飛び込んできて、足が固まる。 「おっちゃん、ごめん! ちょうど豆切れた!」 「えーっ」 私の前を歩く店員が、両手をパン、とあわせて謝る。例のテーブルからは真反対の、窓際にある席を勧めてもらったけど、部屋自体が八畳くらいしかないから、そこまで意味はない。 最後に来た時と、全く同じ居心地の悪さ。あの日も、今と変わらない顔ぶれが、あそこに集結していた。ひときわ声の大きい男と、小柄な出っ歯男、それから笑い声がキンキンするノッポ女に、黙って微笑むだけの影の薄い女。 「少々お待ちください」 男性が、キッチンとおぼしき場所へ入っていく。 四人の会話が邪魔で、ほぼ聞き取れないが、若い男性と誰かがやりとりしているのがわかる。前に見た、あの店主かもしれない。 身を縮めて、履いて捨てるほどある田園風景に集中した。井戸端会議の話題にされたくない。とにかく視線を、絶対に合わせない。 今ばかりは良子が恋しいかも。いや、違う、恨めしい。こんなところに連れ込んでおいて、しかも一人で残していくなんて。思い返せば、いつもそうだ。 あの、まずいくせに600円もするコーヒーを、頭からかけてやりたい。 本気で念じた瞬間、鼻に香りが届いた。 インスタントとは全く違う。直接的じゃないのに、濃い。柔らかいのに、はっきりしている。深呼吸を、したくなる。 「テッちゃーん? 豆、切れたんじゃねえのかよぉ」 腹に深く溜めようとした息が、老人の一声で解散する。 背の曲がった浅黒い男が、床を蹴りつけるようにして立ち、キッチンを覗きに行く。それだけで、私のコーヒーに、ケチをつけられたような気分になった。 「違う違う、ごめんね! こっちのお客さんのだから」 慌てた様子で、店員が姿を見せる。そうして私のテーブルへ一直線にやって来て、「お待たせしました」と言った。 木でできた、縁だけが赤いカップが目の前に置かれる。なみなみ注がれた、黒々としたコーヒーの表面に映る私の目は、笑っていなかった。 これは、飲んでいいのか。本当に、私のコーヒーなのか。 迷ったそばから、「おい、洋治……息子の教育がなってねえなぁ!」とキッチンから怒声が飛んできた。 「閉まるからって今さら来たやつに、最後の一杯を出すたぁ、つれねえじゃねえか!」 「ちょっ、おっちゃん!」 店員が、すごい勢いで再びキッチンの中へ。何かとりなしてくれているようだが、やっぱり内容は聞こえない。 私にも、聞き取る余裕がなかった。 「私、これ、いらないです」 財布を開け、取り出した三百円を叩きつけた弾みで席を立つ。テーブルに残された三人が、ひそひそ、何かを言っていたが、どうでもいい。 大股で廊下を戻り、玄関へ。靴を履いている間に、店員が追い付いてきた。 「ご気分を害すような真似を……本当に申し訳ございません!」 白髪交じりの男性に頭を下げられる。店主の方だ。 罪悪感がじわっと滲んだが、それも一瞬のこと。かえって怒りが増した。 あちらに強く出られない分、私に謝って済まそうとしているのだとしたら、腹が立つ。前に来た時もそうだった! 「せめてテイクアウトで」 「そんなだからこの店、つぶれるんじゃないんですか」 自分の口から、思ってもみない捨て台詞が出た。 驚きを隠せないまま、何より店主の顔を見られないまま、坂を下る。 駅前に戻ってきても、家に帰ってきても、コーヒーの香りはしつこくしみついて、離れなかった。
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