三話 どんなにこの身を捧げても

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三話 どんなにこの身を捧げても

 血の味がした。  そういえば、全身が痛い。  うっすらと目を開きかけて、左目が開かないことに気が付いた。そうだ。昨日、顔の左半分に見事な拳を食らったのだった。男はその目が開かない原因を思い出し、頷いた。  空は薄明かるくなっている。どれ程気を失っていたのか。まさか、夜が明けたのだろうか。 「う、」  なんとか起き上がろうとするにも、こう身体中が痛くては敵わない。壁を背にして座るのがやっとである。 (………ヘマしたな。どう、言い訳をしようか……)  男はまるで人気の無い細道の暗がりにいた。もっとも、此処で暴行があったわけではなく、男が人目を気にして這う這うの体でやっと此処まで来てから気を失ったのだった。  朝を迎えるまでには、屋敷に戻らなければならない。  身体中の痛みとそののことを思い、脂汗が浮かぶ。  這ってでも帰らねば、と身体の何処かに力を入れると、激痛によってその気力が失われた。  と、その時、凭れかかっていた壁の向かいの引戸がガタリと音を立てて開いた。 「!」  出てきた女と目が合い、二人は暫し目を見開いたまま互いを凝視した。小さな輪郭に、量が多く長い睫毛。睫毛の下にくりくりと大きな目。小さな鼻に、控えめな唇。雪のように白い肌に唇の赤い紅が映える。長く真っ黒の髪は艶やかに光っていて、男のところまで椿の花の香りが届くようであった。来ている着物は少し古くさいが、落ち着いた紫色の袴とよく合っていた。足元には、履き古したブーツ。顔立ちこそは綺麗だが、身なりからは貧乏が窺えるようであった。  二人はまだ目を逸らせないでいた。女からするとただそこに人がいるとは思わずに驚いただけだろうが、男は、その女の美しさに目が奪われていた。 「……少し、待って」  女は一旦またその建物の中に引きこもったかと思うと、直ぐに手拭いと水の張った桶を持ってやってきた。男の血と土の付く肌を優しく拭う。 「いっ、」 「我慢して下さい。男でしょう」  ピシャリと言い放つ気高い声は、しかし、女のそのみすぼらしい姿とは釣り合わない気がした。改めて、女の姿を見る。顔は少しやつれ、着物は古汚い。履いているブーツも、底がすっかり擦れてしまっていた。手拭いを持つ手はささくれだって、お世辞にも「白魚のような」手とは言い難い。 「頬の腫れが酷いですね。軟膏ならありますが…」  この時代、氷はいたく高価なものだった。 「いい。……それより、人を訪ねてくれないか。連れて来て欲しい。早く家に帰らないといけない」 「あら。それでは、私が肩をお貸しします」 「女に支えられるものか」  社会進出する女性がちらほらと見え始めたこの時代、そんな女を蔑視するつもりで発した言葉では無かったのだが、女は嫌な風に受け取ったらしい。「私に触れられるのが、お嫌で?」と、目を吊り上げた。 「そういうつもりじゃない」と男は慌てて誤解を与えた非礼を詫びたが、女は男の左脇に入り込み、「せえのっ!」と言って男を立たせた。男が驚く程、強く逞しい力であった。 「そんな頼りない力じゃない。分かって?」  女は歯を覗かせて笑った。  男は、そんな彼女に、もう一度惚れたのだった。
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