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「光子さんに会えたって、本当ですかっ?」
月曜日の二限は空きコマだった。
嶺は一限が終わるなり、急いでサークルの部室へ向かった。そこには、同じく月曜二限が空きコマである那智が待ち構えていて、嶺が扉を開けるなり、那智は逸る気持ちのままに半ば叫ぶように問う。
「やっぱり美人でしたかっ?! 記憶ありましたっ?! そもそも何処で出会ったんですかッ?!」
返事に困って「う、」とたじろぐ嶺にも気付いた様子もなく、那智は矢継早に質問を重ねた。嶺は、グイグイと迫る長身を右腕一本で押し退ける。
「那智、ハウス」
「……くぅん……」
百七十センチの嶺よりも十数センチは大きそうな身体が、嶺のその台詞によってすっかり縮こまった。
狭い部室を少しでも広く使えるようにと、床一面は後から畳が敷かれている。六畳程の部室の、その丁度真ん中で正座をし、小さくなっている巨体と言うのはなかなかに面白いものがある。しかし主である嶺は、両腕を組みながらも少し不服そうに笑った。
「素直に従うなよ、ばか」
「ううう、だって………嶺さんの命令だから……」
「そういうのやめろって、那智先輩」
「う、那智『先輩』はやめて下さいよ……」
だってセンパイじゃん、とニヤニヤと笑う嶺に、「僕が嶺さんの先輩だなんて……」と、那智はますます身体を小さくさせた。
嶺は大学二回生。那智は大学三回生。
二人は確かに、サークルの先輩後輩関係にある。また、嶺が浪人していると言うことも無く、歳は確かに嶺が二十歳、那智が二十一だ。因みに、彼らの出会いは一年前の春。嶺が大学に入学し、このサークルへ訪れた時である。
嶺は靴を脱いで畳の上に上った。どかり、と那智の直ぐ隣に腰を下ろす。
「……光子、じゃ無かったよ。あんな奴……」
「え?」
冗談の空気から急にシリアスな空気になるので、危うく那智はその言葉を聞き落とすところだった。慌てて、嶺の方へと体を向ける。嶺は真っ直ぐ前を向いていて、那智の方を向いていなかった。それでも、「それ、どういう意味ですか?」と、それで終わりそうだった会話を拾い上げた。
「人違いでした?」
嶺は首を横に振る。
那智は首を傾げた。
光子について、記憶を巡らせるーーーまでもなく、よく覚えている。長い黒髪を上手に束ねて、しずしずと歩くお淑やかな女性。普段はあまり表情に機微を感じる事はないが、時々その口元に手を添えて笑うような事があった。その姿は、可憐と言うよりは、優美であった。
大層美人な女だった。それでいて、傲らず、主人想いな妻でもあったと思う。旦那であるその人も、いたく光子を愛していた。その愛を、一心に受け止めていたはずなのに、何処までも謙虚であった。ーーーー羨ましい、と、思っていた。
「………[[rb:魂は>・・]]光子だけど、………男だった………」
「えっ」
金槌で横からこめかみを殴られたような衝撃を覚えたが、そんな那智に嶺は気が付かない。
「………それでも出逢えたから、それで、舞い上がって、お前にメッセージ送っちゃったけど………、あ、バイト先の先輩でさ……」
「ま、待って……! 待って下さいっ! ストップですッ! 嶺さんっ、バイト始めたんですかっ?!」
「え? あ、まあ。……言わなかったっけ?」
そこ? と嶺がやっと那智の方を見た。出端を挫かれたような顔をしていたが、那智は構わずに「聞いてませんよっ!」と嶺を詰った。
「何処で何するバイトですかっ?! 店の名前はっ! 次のシフトはいつですかッ!」
「待て。待て待て、お前はいつも、そう矢継早に質問を重ねるな……」
嶺は、グイグイと前のめりに迫る那智を顔の前で両手を向ける事でガードする。と、那智の向こうに転がっていたエアコンのリモコンに気が付いて、身を乗り出した。
那智に抱き付くようなモーションになり、驚いた那智は体を硬直させた。
「っ…!」
「あ、悪ぃ」
触れないように配慮したはずが、左肩が那智に触れてしまったのを謝った。エアコンのリモコンをクーラーに向け、温度を二度下げてリモコンを放り出しても、那智はそのまま固まっていた。
「? …………那智? 那智先輩?」
「…………だから、『先輩』はやめて下さいって……」
「お前時々、心此処に在らず、みたいになるじゃん。何?」
「………気にしないで下さい。瞑想してるんです」
「そんな、突然?」
ふはっと嶺が笑った。那智の顔がかぁっと赤くなる。アホなことを口走ったと、自分の発言に羞恥しての事かと思った嶺は、尚のこと笑った。
「はぁー、お前、なんか現世では面白い奴だよな。ところで、腹減らね? そろそろ学食行くか~」
笑い終わった嶺がスクッと立ち上がると、那智は慌てた様子で嶺を見上げた。
「えっ、あ、まだ嶺さんのバイトの話聞けてないですよっ! 生協で弁当買って、此処で食いましょうよ!」
「光子の話じゃなくて、俺のバイトの話?」
また目を細めて笑う嶺を、那智も目を細めて、眩しそうに見上げていた。
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