一話 最悪な出逢い

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 午前四時。  bar・oblio(オブリーオ)の閉店時間である。 「お疲れさんっ」  それまでピシッと着こなしていた黒シャツを着崩して、マスターはかつての第一印象通りの雰囲気で嶺達に労いの言葉をかけた。 「んじゃ俺、一足先に帰るから。清掃と戸締まり宜しくねーっ★」  労いの言葉だけ、である。マスターのリュウはヒラヒラと右手を振りながら、さっさと表の扉から出ていってしまった。 「………くそマスター……」  元々酒豪である嶺だったが、慣れない仕事の疲労と眠気が相まって、珍しくほろ酔い気分でどうにかなりそうだった頭は、心の声を心の中に留めてくれなかった。嶺の物言いに「ぷ、」と麗は吹き出した。  また諌められるかと思って内心身構えていた嶺は、目を丸める。 「……ほんと、アイツは糞だよ」  その端麗な美しい顔から「糞」なんて下品な言葉が溢れて、拍子抜けた。投げやりに、表情に陰を差し、忌々しげに言うものだから、驚いた。  糞、という下品な言葉をつかってしても、麗の顔は美しく、どぎまぎとしてしまう心があった。陰が差せば、儚げな美しさが顔を出す。それは少し、かつての光子の面影を見るようだった。ーーー否、こいつはゲスなんだから……と何とか嶺は胸が高く鳴るのを抑えようとする。 「さぁ。さっさと片付けて帰ろうか」  次の瞬間には、麗はいつものにこやかな笑みを浮かべていた。この顔は美しくこそあれ、あまり光子には似つかない。 「……営業終わったのに作り笑いするなよ。気色悪い」  的確に指摘して吐き捨てる嶺に、今度こそ麗は眉をしかめて嫌悪感を表した。 「……ほんと、糞生意気な餓鬼。のくせに」 「誰がエアコンじゃ! 比良野嶺(ひらのみね)じゃい!」  嶺の初日にも麗は嶺の名前を、音が似ているからとそう呼んでからかった。  憤慨する嶺を他所に麗はさっさと手を動かし、シンクの片付けを終わらせた。嶺もさっさと帰って寝たい気持ちを抑えきれず、カウンターを隅々まで拭きあげると床の箒がけに移った。  片付けは三十分程で済んだ。戸締まりをしっかりとしてから、二人一緒に裏口から出る。 「あっ、お疲れー!」  出ると、何時間も前に店を出ていたはずの千恵達が直ぐそこで待っていた。嶺はギクリとして、なんだか嫌な感じが胸に広がっていくことを自覚していた。  早朝と言っても夏を感じる蒸し暑さがある。それなのに、二人は汗一つかいていなかった。何処か別の場所で時間を潰していたと見える。  何故此処に? と二人の目的がわからないまま怪訝に思っていると、二人は麗の左右の腕に絡み付いた。  嶺がギョッとしていると、そんな様子に気が付いた千恵が先程よりも遥かに色気を増して、嶺の方を覗き込む。 「嶺クンも、来る?」 「け、結構ですッ……!」  やーん、振られちゃった! と女子達は笑った。艶かしい雰囲気を纏っている。冷や汗が出た。 「んじゃ。また」  麗は涼やかな顔をして踵を返した。左右に女を二人はべらし、今から向かうところと言えば……一つではないだろうか。 「………っ、不潔野郎が……!」  角を曲がり、三人が見えなくなるまでポカンと見送ってしまった嶺は、やがて我に返って、精一杯の嫌悪を込めて、吐き捨てた。 (……アイツが光子なわけ、無いっ!)  グッと握った拳は怒りで震えた。  アイツが光子じゃない証のようなものだ。  現世の俺が、アイツのことを好きになるわけがない!
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