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桜が散る
古ぼけた山奥の小屋に、私は一人きりでいた。
子どもの頃から住んでいるものの、ここはいつまでたっても田舎だ。目の前にあるのは、手入れもされなくなった、無駄に大きな荒れ地。雑草が伸び放題のそこは、小さい頃はおじの田んぼだった。どこまでも続く山と空。変わらない景色に、時の流れも追えず私はいつまでも年を食えていないんじゃないか、なんて錯覚を覚える。庭にある一本の桜だけが、年の始まりを思い出させてくれた。
そんな何もない田舎に、あの子はやってきた。
桜の開花と共にやってきたあの子は、見るも哀れな子だった。服も髪もぼろぼろでみすぼらしく、いじめられていたのはすぐにわかった。都会の子どもというのは残酷で、自分たちと少し違うところを見つければ、狭い教室に閉じ込められる鬱憤を晴らす小道具にしてしまうと言う。きっと、そんなところからこの子は来たのだろう。
「怖くないよ、こちらにおいで。誰もお前をいじめたりしないから」
あまりに可哀想な見てくれだったから、そう声をかけた。手も足も傷だらけのボロボロで、私が声をかけても口がきけなかった。怖さに言葉も忘れてしまったのだろうか。嫌だも、やめても、言えないものだから、助けを求めることもできなかったらしい。
そんな子が、うちの庭の、桜に木の下にうずくまっていた。
私は昨日の残り物を温めつつ、おにぎりを作ってやった。泥だらけの手を伸ばすものだから、その手を払って直接口元に持って行ってやった。お腹も空いていたのだろう、私の顔をじっと見た後、ゆっくりとその子はおにぎりを食べ始めた。一つ、また一つと、口元に持って行く度に食べていった。食べるのがあんまり遅いから、そんなところもいじめられていたのかも知れない。いつも空腹で、おにぎりの好きな子だった。
私はそれから、その子と暮らすことにした。
その子に帰る場所がなかったのは、すぐにわかった。いつまでも庭でうろうろと、所在ない様子で桜を眺めたり、虫を捕まえては逃がしてを繰り返すものだから、家に招いて風呂に入れた。その子に石けんを差し出すと、齧ろうとした。あまりに無知で、この子には私がついていないとダメだと思った。
その夜は寝床も与えてやった。
「こんなあたたかいところで寝ても良いの」
おそるおそる私を見上げた顔は、そんなことを訴えているように見えた。私は頭を撫でて、優しい言葉をたくさんかけてやった。翌日も温かい食事を与えた。物覚えの悪い子だったから、根気強く風呂も教えてやった。
その子は言葉を知らなかった。だから、私が教えてやった。
「ありがとう」と「ごめんなさい」を、その子は自分の名前より先に覚えた。
「ご飯ができたわよ、早く手を洗ってきなさいね」
「ごめんなさい」
「ご飯を作ってくれた母に、感謝しなさいね」
「ありがとう」
私が教えた言葉だけ繰り返す、なんにも知らない、なんにも出来ない子。箸が上手く持てなくて、卵焼きをよく床に落として怒られる子。その小さな手に、箸の代わりにおにぎりを持たせてやる。私があの子を守らなきゃいけなかった。
あの子は桜が好きだった。
けれど変わった子で、春には庭で、地面に落ちた花弁をかき集めて遊ぶのが好きだった。上にもっと綺麗な花がたくさん綻んでいるのに、そちらは眩しそうに眺めるだけで何もしなかった。背が伸びたのだから、手を伸ばせば届くところにあるのに。そんなこともわからないでずっと、茶色く汚れた花弁を愛でていた。
そんな様子を私は見守って、危ないことをしようとしたらちゃんと叱って教えてやった。あの子のお腹が空いたら、桜を見ながら庭でおにぎりを食べる。そんな一日があの子は好きだった。
私の言うことをよく聞いていれば、あの子は私が守れたのに。
ある日、あの子がケガをして帰ってきた。少し遠くの山まで行って、転んたと言っていた。
「お前は何にもできないんだから、教えたこと以外しちゃダメよ」
「ごめんなさい」
「先に傷を洗ってきなさい。それと手も洗うの。そうしたら、ご飯を食べても良いから」
「ありがとう」
その日はそれだけ言って、すぐに布団で寝かせてやった。
あの子の物覚えや理解が乏しいことを、私は失念していたらしい。ケガをしたにも関わらず、それでもあの子はまた山へ行ったようだった。今度は転びはしなかったけれど、服には山道をかき分けたときについたであろう、枝葉の汚れや穴だらけだった。おまけにぬかるんだ道を歩いたせいで、靴も泥だらけだ。
「お前、また山へ行ったね。どうして母の言うことが聞けないの」
そんな格好をしているのに、「どうしてバレた」という顔をするから、私はその子の頬を叩いた。嘘もつけない間抜けな子に、部屋から出ないよう私は言いつけた。
どうして、ケガをするかも知れないような怖いことをするのだろう。転んで、痛い思いをしただけではわからないのだろうか。山の葉は毒があるかもしれない。ひっかけた枝に毒虫がいたらどうするの。こんなにも大事にしているのに、どうしてわかってくれないの。
母がくれた頬の痛みで、少しは理解してくれないだろうか。叩いた手をさすりながら、私はまたおにぎりを作ってやる。好物を作ればちゃんとわかってくれるだろうか。ここにはお前を守る母と、お前の好きなものがあるのだから、ここにいたらそれでいいのだと。ちゃんと何度も、母が根気強く教えてやらないといけない。
私が何度頬を叩いても、あの子は山へ行くのをやめなかった。
両の頬を叩いても、山の怖さをこんこんと伝えても、俯いたまま何も言わず、ついに理解してくれることはなかった。母が泣いても、あの子は山へ行った。
ある日、あの子が友達を連れてきた。山で会ったという女の子だそうだ。
「あの子は何でも教えてくれる」
「母がダメだと言うことも」
「大丈夫だとやらせてくれる」
「ケガをしないための知識も」
「ケガをしたときの対処法も」
「母の好きな魚も、捕まえ方を教えてもらった」
「鳥の巣の、見つけ方だって」
たどたどしい言葉で、そんなことを私に話した。
なんて愚かなんだろう。川で魚を捕る方法、鳥の巣を見つける方法、そんなことを知って何になるの。ケガをしないための知識も、対処法も、ケガをしてしまえば、その痛みをなかったことにできるものではないのに。結局ケガをして痛い思いをするのは、お前なのに。
私は首を横に振って、友達を玄関に待たせて部屋へ連れ立った。
「魚を捕るなんて、野蛮なことしないで。お店で売っているのに、何が不満なの」
「新鮮な魚は、お店の魚より美味しかったよ」
「山のものを食べたのね。腹に何が入っているか、分かったものじゃないのに」
「大丈夫、あの子がそれも教えてくれた」
「鳥の巣なんて、見つけてどうするの。その子は鳥に、イタズラをしたんじゃないでしょうね」
「そんなことしない。声を聞いて、雛を覗いただけだから」
「それでも母鳥は嫌かも知れないでしょう。母がお前を、あの子に連れて行かれるのが嫌だと思うように、お前が気づかないだけで何かを苦しめているかもしれない。お前は頭が悪いのだから、そうに違いないと思いなさい」
あの子は黙って俯いたまま、「ごめんなさい」としか言わなかった。約束も守れないダメな子の、謝罪に何の意味があるのだろう。悪い子どもに騙されてやしないか、母は心配で胸が痛いのに、どんなことも理解しないでごめんなさいを繰り返す。まるで壊れたオモチャだ。
今までどれだけ言いつけても、何も叶えてくれなかったこの子に、あの女の子に二度と会わないよう約束をさせても無意味だろう。あの子に部屋で待つように言いつけてから、私は玄関に向かった。
「あの子はどうしたの」
「疲れて眠ってしまったわ。今日はもう帰りなさい」
「それじゃあ、明日はここに遊びに来ていいかしら」
「あの子はもう、あなたに会いたくないと言っていたわ。山での遊びは野蛮で疲れて大変だから、二度と誘わないでと」
泥まみれなのをそのままにしたようなワンピースと、ボロボロのみすぼらしいサンダルを履いた、山猿のような女の子にそう伝えて帰ってもらった。あの子より年上みたいだから、少しは聞き分けがよいと良いのだけれど。何度もこちらを振り返る女の子に、私は手を振って追い払う。
それから、部屋に戻って、布団の中で丸まっていた臆病なあの子にもこう伝えた。
「あの女の子は帰ったわ。もう遊びたくないから、二度と会わないでと言っていたわ」
「なんにもできない、とろくさい子。そんな子とはもう遊びたくないって」
布団の中から嗚咽が聞こえる。可哀想に、きっとあの子が大切だったのだろうね。けれど、この子がどれだけ大事に思っても、向こうはそうではないかもしれない。そんなことにも気づけない、可哀想なこの子は私が守ってやらなきゃいけない。
でもきっと、この子はまた約束を破るだろう。私の目を盗んで、また山へと遊びに行くのだろう。なんとかしなきゃ、なんとかしなきゃいけない。
あの子のために、庭に柵をしいていると、珍しくも人がやってきた。
何度目かの桜が咲いた日のことだった。あの子の母を名乗る人がきた。
「やむを得ない事情がありました」
「子を捨てる事情ですか」
「捨てたわけではありません。あの子を父親に引き剥がされ、遠いここまで追いやられたのを、ようやく見つけ出すことができました」
「それを信じる証拠はないのでしょう。あなたがあの子の母というのも、嘘かも知れない」
「どうか一目、会わせていただけませんか」
私は侮蔑の気持ちでいっぱいだった。あんなにも小さくて弱い生き物を、あんなにもできそこないにしておきながら、あの子の母と名乗るその人が嫌いになった。きっと、できそこないだからと置いていったくせに、大きくなったから役立つだろうと思って、取り返しに来たのだろう。
ずっと探していただとか、眠れぬ夜が続いただとか、その人は1人で涙を流していた。これを子の母だなんて、呼びたくもなかった。その母親もどきの後ろには、あの女の子がいた。
ああ、やっぱり、あんなにお願いしたのに
「聞き分けのない所は、あの子そっくり」
「それじゃあ、信じてもらえますか」
「悪いところを、わざと似せただけでしょう」
「どうか信じてください。あの子のためだけに、私は生きてきました」
「お願いよおばさん!お母さんに、あの子と会わせてほしいの!」
こんなできそこないが生んだから、あの子ができそこないになってしまったのだとすると、納得はいくけれどあんまりだ。それからもあまりにもしつこく、あの子に会わせてと繰り返すものだから、あの子を抱き上げたまま柵越しに、顔だけを覗かせて見せてやった。
「あ、ああ」
あの子は初めてうちに来たときのように、言葉にならない声でその人を求めた。あの子は腕の中で暴れて、あの母親もどきの元へ行こうとした。もしくはその後ろの、あの女の子の元へ行きたがった。きっとまた、山へ遊びに行きたかったのだろう。ケガをするかもしれないのに、悲しい思いをするかもしれないのに、抱き締める母の手を振りほどこうとするその子の脚の肉を、きつくつねって囁いた。
「お前はなんて子なんだろうね」
「これまでずっと、この母がお前を守ってきたやったのに」
「お前を捨てた父から、お前を守れなかった母親もどきが良いというの」
「また捨てられても知らないから」
「もう帰る場所も無くすのよ。ここがお前の場所じゃなくなるのよ」
「それでも、いいの」
何度も何度も言い聞かせて、涙ながらに訴えると、ようやく動かなくなった。だらんと冷たくなった腕をたたんで、抱きかかえてあたたかい布団で寝かせてやる。可哀想に、本当の母の愛なんて幻想を夢見ていたのだろうね。自分を叱る母の愛もわからず、優しくなんでも好きなようにさせてくれることが幸せだと思い込んでいるのだろう。愚かな子どものよくある妄想だ。なんでもさせて、ケガをしたりしてもあのもどきはなんとも思わないのだろうに。それが母の愛だなんて、あの子にすり込まれたんだ。きっと今に、今度は山猿の巣に捨てられてしまう。
やはり、私がこの子を守らなければ。
「あの子は、自分を捨てた母親の元に戻りたくないと言っている」
「どうか、話を。話をさせてください」
「さっきは一目、と言ったのに次は話か。その次には家に上がり込んで、あの子を連れ出して攫っていくのだろうね。怖い人」
そう言って、ようやく悪い大人を追い払うことができた。
振り返って私を睨む女の子は、真っ赤になって悪魔のような目をしていた。ほら、やっぱり。あれはあの子を傷つけることを平気でできる目なんだろう。私は目を逸らさず、無心でそれを見送った。
それから、布団を頭まで被って丸くなっているあの子に、優しい声をかけた。可哀想に、勝手な言い分で傷つけられた哀れな子ども。私の子は愚かだ。それでも私の子だ。私が守ってあげるから。
「おいで、もう泣く必要はないよ。おにぎりでもまた、作ってあげようね」
「ごめんなさい」
「何を謝っているの、理解もしてないことを謝っても仕方ないのよ」
「ぼく、おにぎりより、卵焼きが好きだったよ」
そう言ったきり、あの子は静かに眠ってしまった。声をかけても反応しないものだから、泣き疲れてしまったのだろう。夜中におにぎりを握ってやって、枕元に置いてやった。
子どもは親に反抗するものだとは知っている。箸もろくに握れない子が、卵焼きが好きだなんて呆れてしまう。手掴みをして何度も怒られ、箸の持ち方もろくに知らないくせに。それも、あの女の子が何か言ったのだろうか。この子のことを何も知らないで、ありもしない夢を見させたのだろう。
そうすると、翌朝には手紙だけ残して、あの子は居なくなってしまった。
めくれた布団には涙の跡と、桜の花びらだけが残っている。紙の端に書かれた手紙には「ごめんなさい」とだけ、拙い文字で残されていた。
感謝の言葉も教えたのに、馬鹿なあの子はとんと使ってくれなくなってしまった。
守ってあげてきたのに、あの子は怖いところへ行ってしまった。この居場所が、お前のものではなくなるかも知れないと教えたのに、そんな大事なことも理解しないまま行ってしまった。
桜と共にやって来た子は、桜と共に行ってしまった。
桜はきっと、私を不幸にするのだろう。けれど、あの子がもしも帰ってきたくなったら、この桜の木がなければ迷子になってしまうかもしれない。落ちた花弁で遊ぶのが好きなあの子のために、枯らすまいと桜に水をやる。
あの子が帰ってこられるように、今年も私は水をやる。おにぎりを作って、庭で待っていてやる。
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