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息ができる場所を探して
朝日と一緒に眠って、午前中に起きられたら御の字。今日は三時間目に一応間に合うくらいの時間に目が覚めた。
「起きました。学校行きます」
母に連絡を入れてセーラー服に着替える。昨日の晩御飯の残り物を適当に食べて、家を出発しようとしたところでちょうど既読が付いた。返信はない。
お昼時でも通勤時間帯でもないやや静かな商店街をぼーっと歩く。小学生の時、塾帰りによく寄っていた鯛焼き屋さんに閉店のお知らせの貼り紙があった。そんなささいなことで一日の始まりから早速センチメンタルな気分になる。
いつからこうなってしまったんだろう。たぶん、きっかけは中学受験に失敗したこと。とはいっても、小六の二月の合格発表の瞬間からおかしくなったわけではなくて、ちょっとずつ歯車が狂っていった。
ひとつめ。両親の仲が悪くなったこと。二人とも私のことは責めなかったし、高校受験でやり直せばいいと言ってくれた。でも、私の代わりにお互いを責め合った。
「あなたが流奈の受験に協力的じゃなかったからよ。鈴木さんのところはお父様が日曜日に勉強見てあげてたらしいじゃない」
「お前が仕事を続けていたのにも問題があるんじゃないのか。鈴木さんのところも吉川さんのところも専業主婦だろう。お前が流奈をちゃんと見ていればよかったじゃないか」
「塾代だって高いんだから、あなたのお給料だけじゃやっていけないわよ。全部あなたのせいよ」
昔は家族みんなでミュージカルを見に行ったりして仲が良かったはずなのに、両親が毎日怒鳴り合っている。家族を壊してごめんなさい。
ふたつめ。友達と離れ離れになったこと。仲良しの友達三人と志望校が同じだったけれど、私だけ落ちてしまった。学校が離れてもずっと友達だよって言ったはずなのに、SNSのアイコンは私と撮ったものから新しい学校の知らない誰かとのモノに変わっていた。
他にも多少仲のいい子はいたけれど、その子たちも別の私立に行ったり、学区が違ったり。アウェーな環境で心機一転しようと頑張ったけれど、新しい友達は出来なかった。小学校では「流奈」と呼ばれていたけど、今は「夏山さん」と呼ばれている。
すごく嫌われているというわけじゃない。ただ馴染めていないだけ。体育の時間に二人組を作ってと言われて、私と組むことになった子も露骨に嫌な顔はしない。でも、誰かが欠席して人数が奇数になると余るのはいつも私。
たとえば今授業中の教室に入っても、一瞬みんな私の方を振り返るけれど、すぐに授業は再開される。ヒソヒソ話も最近は大分まばらになった。遅刻や欠席が多くても「夏山さんはそういう子だから」とスルーされている。ワケアリだから先生に呼ばれることも多いけど、親切な子が「先生が呼んでたよ」って教えてくれる。わざと聞こえるように悪口を言われたりあからさまに無視されたりしているわけじゃない。先生に「意地悪な子がいないか」心配されることもあるけど、クラスに問題があるわけじゃない。ただ、私がうまくやれないだけ。友達がいない寂しい人間ってだけ。
みっつめ。家でも学校でも他の子みたいにちゃんとできない私自身が嫌になったから。
英語の授業は今ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話『人魚姫』の単元をやっている。私が教室に入ったタイミングでは、お調子者の渡辺君が音読していた。男子も女子も、みんな人気者の渡辺君のことは「ナベちゃん」と呼ぶ。でも、私は渡辺君と話したことが無い。
「シスター ゲイブ ハー ア クナイフ」
渡辺君は大きな声で教科書を読んでいる。渡辺君の読み間違いを先生が冗談めかして指摘した。
「おーい、kは発音しないぞ。日本語でもナイフはナイフって言うだろ」
「センセー、うち母ちゃんがケチでステーキとか晩飯に出て来ないんでナイフとか知りませーん。ナイフを覚えるために今日の給食は神戸牛のステーキにしてくださーい」
渡辺君のジョークにクラスが爆笑の渦に包まれる。
「いやー、給食が神戸牛のステーキならテスト満点とれるんだけどなあ」
ネタの追撃には先生も半笑いだ。その後も授業は進んだが、先生は時々思い出し笑いをしていた。
「じゃあ、次。A school of fishの和訳は……夏山、できるか?」
先生は次々と生徒を当てていき、私の番が来た。私が当てられた瞬間、教室が白けたように静まり返る。スクールは学校、フィッシュは魚。でも、文脈的に何かおかしい気がする。間違っていたらどうしよう。私は固まってしまった。
「分からなかったら無理しなくていいぞー」
周りからの視線が痛い。みんなを待たせているところに気づいて、咄嗟に小さな声で答えた。私なんていてもいなくても変わらない存在なのに、親にも先生にもクラスメイトにも迷惑をかけてしまう。
「あ、えっと、魚の、学校」
ヒソヒソと誰かが話す声がする。きっと私の答えは間違っていたのだろう。微妙な空気が教室を覆った。分かりませんと言うべきだったのか自問自答してしまう。
「めーだーかーの学校はー、かーわーのーなかー」
渡辺君が大きな声で歌う。クスクスと笑う声がする。
「渡辺、やめなさい。夏山、魚は合ってるぞ」
先生にフォローされた。それが逆にいたたまれない。
「じゃあ、森井は分かるか?」
先生はそのまま後ろの席の森井さんを当てた。
「魚の群れでーす」
「正解。スクールは群れって意味もあるからみんなも覚えとけよー」
森井さんは勉強も運動もできて人望もある。私は勉強すらまともにできない。笑われた。恥ずかしい。こんな風に自己嫌悪に陥る。
大体、失敗すると翌日まで、酷い時は一週間以上引き摺る。きっと今夜も眠れない。
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