嫌いな桜の木の下で

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 目の前の桜を見上げる。背筋に悪寒が走った。溜息をつく。あの日、目前に迫った桜。今でも脳裏にはっきりと浮かぶ。それから僕は桜が嫌いになった。傍らのそれにもたれかかる。彼女は元気だろうか。あんな別れを迎えることになって申し訳なく思う。  葵に出会ったのは大学のとある授業でのことだった。隣の人とペアを組んでと教授が言うので戸惑った。三人掛けの席で、僕の隣には誰も座っていない。前の人は隣同士で既にやり取りを始めている。後ろを見ると、最後尾の端の席に女子学生が一人座っていた。すみません、と声を掛ける。彼女は細い肩を強張らせた。 「僕とペアを組んでくれませんか」  彼女は目を丸くしたが、いいですよと応じてくれた。教科書とノートを持って隣に座る。その時、周囲の学生達がこちらを横目でちらちら見ていることに気が付いた。理由がわからず、それ故に僕を苛つかせた。構わず彼女へ話しかける。清澄葵と名乗った。村田薫ですとこちらも名乗る。授業の終わりまで一緒に課題へ取り組んだ。言葉や意見を交わす時、彼女の声は小さく、しかしよく通って聞こえた。 「ありがとう。またよろしくね」  何気なく掛けた言葉。清澄さんは俯いて、はい、とだけ返事をした。僕は荷物を纏めて一人、教室を後にする。ぶらぶらと廊下を歩いていると肩を叩かれた。自慢ではないが大学に友人はいない。誰だろうと振り返る。案の定、知らない人達が立っていた。三人組の男女。女子学生の一人が口を開く。 「村田君、だっけ。君、さっき清澄さんと話していたよね」  首を傾げる。だから何だ。僕の反応に、知らないのと奇声を上げた。知らないのは君達の名前だ。彼女は辺りを見回し、僕の耳元へ顔を寄せた。 「清澄さん、異能力持ちらしいよ」  それだけ告げて離れる。あぁそうと応えた。相手は底意地悪く口を歪めている。これ以上僕から言う事は無いのでだんまりを貫いた。次第に三人の顔が困惑へと変わる。 「他に反応は無いの?」  黙って頷く。あっそ、と眉を顰めた。 「君、失礼だね。こっちは親切心で忠告してあげたのにさ」  なるほど、三人揃って性根の曲がった顔をしている理由がよくわかった。背を向ける。死ねよ、と後ろで聞こえた。君達に僕の生死をとやかく言われる筋合いは無い。  異能力者。数百万人に一人の割合で生まれる特別な力を持った人間。原理も原因も不明。はっきりしているのは、各々が特異な力を持っていること。火を噴く。手を触れず物を動かす。失った腕が生えて来るほど強い再生力を持つ。人間以外の生物へ変身する。現れた当初、彼ら彼女らを対象に様々な研究が行われた。ある異能力者は人類の発展に貢献したいと積極的に協力を申し出た。別の異能力者は、枯れた土地に緑を蘇らせた。貧しい人を助ける。傷ついた動物を治癒する。異能力の使い方は人それぞれ。だが、一般人との対立は生まれなかった。あの事件が起きるまでは。  一人の異能力者が、己の価値観に基づき正義を振りかざした。結果、彼は死んだ。異能力を応用した自爆。それにより、都市が一つ消し飛んだ。  その日を境に一般人の異能力者に対する接し方は変わった。異能力者は全て危険人物、人殺しかのような扱いを受けた。異能力を持つ者は精神に変調を来たしている、という噂が当然のように吹聴された。多くの異能力者は身を隠した。そして、事件以降も異能力者は生まれた。その内のほとんどの者が力を持っていないように振舞った。一般人に紛れる異能力者。それでも、時折力の一端が漏れ出ることがある。恐らく清澄さんも何らかの形で力を知られてしまったのだろう。結果、先程の三人組みたいな輩に後ろ指を刺されるのだ。表向きは異能力者を差別してはいけないと社会は謳っている。しかしわざわざ宣言すること自体が差別だと僕は思う。それに、性根の腐った奴に正論を説いたところで通じやしない。  僕と接した清澄さんは普通の学生だった。そもそも本人から異能力者ですと告げられたわけでも無いので、本当に彼女がそうなのかもわからない。ただ、教室の一番隅に座る彼女は一人ぼっちだった。  翌週の同じ授業。清澄さんの隣に座った。彼女は、何で、と呟いた。 「またペアを組まなきゃいけなくなるかも。だから始めから隣に、ね」  僕の返事に、そうですかと俯いた。目に涙が浮いている。気付かないふりをしてノートを開いた。僕に声を掛けた三人組がこちらを指差し口を動かしていたが、鳴き声の意味はわからなかった。  少しずつ、彼女との交流を深めた。授業で隣に座る。学食で一緒に食事をする。天気の良い日はベンチで日向ぼっこをしながらお喋りをした。いつからか、互いを下の名前で呼ぶようになった。一層の親しみを覚えた。  雨の日のこと。傘を差し、並んで歩いた。ふと僕の傘に何かが当たった。傾けてみるとナメクジが糸を引いて落ちて来た。転落する先は葵のすぐ側だった。うわ、と僕は顔を顰める。何、とこちらを見た葵は悲鳴をあげた。同時に彼女の握る傘の柄が粉々に砕けた。プラスチックは小さな破片になり、金属は握った指の形に曲がっていた。それを見て、おぉ、と声が漏れた。葵は俯いた。最近の彼女は顔を上げて過ごすようになっていたので、その角度は久し振りに見るなと思った。 「薫、知っていたよね。私が異能力者なこと。これが私の異能力。力が凄く強いの」  へぇ、と返事をする。葵の目から次々に涙が溢れた。 「怖いよね。気持ち悪いよね。でも頑張って隠しても、一生懸命押さえても、どうしようもない時があるんだ。ごめん。今まで仲良くしてくれてありがとう。さようなら」  壊れた傘を手に走り出す。その背に、何で、と呼び掛けた。 「俺、まだ何も言っていないけど」  緩やかに足が止まる。彼女へゆっくりと歩み寄り傘を差しかけた。 「君が異能力者であること。俺の友達であること。その二つは結び付かない。少なくとも俺の中では」  真っ赤に充血した目。ハンカチを取り出し葵の涙を拭う。どうして、と小さな、よく通る声が耳に届いた。肩を竦める。顔を覆って泣く彼女の背に手を回した。僕の胸に縋る葵。彼女の圧力に何度もよろめいた。確かに怪力だ、と納得した。それでも避けることだけは決してしなかった。  葵をアパートまで送り届けた。家へ上がってと言われたが流石に辞退した。友達とはいえ男と女。一人暮らしの女の子が男を上げてはいけないよと諭す。しかし、お願いと手を取られた。怖いよね。気持ち悪いよね。先程彼女が口にした言葉。自分をそう言い表した人が、家に上がってと頼み込んでいる。深呼吸を一つして、わかった、と応じた。  部屋を見渡す。タンスにベッド。小さなテーブル。本棚の脇にはこれまた小さなテレビ。そして、二人掛けのソファ。彼女は何を思いこのソファを買ったのだろう。そんなことを考え頭を振る。葵はハーブティーを入れてくれた。僕は床に、彼女はソファに座る。雨で冷えた体に暖かいお茶が染み渡った。 「独り暮らしなんだね」  普段と違い話すことが思い付かず、見ればわかることを口にした。我ながら間が抜けている。 「大学へ入る時にね、仕送りはするから家を出てくれってお父さんとお母さんに言われたの。二人とも、泣きながら娘の私に頭を下げていた。親の頭頂部なんて見たくなかったなぁ」  罪悪感を覚える。深く思考もせずに零した言葉。それで葵の傷に触れてしまった。そんなつもりは無かった、などと言ったところで許されるわけもない。ごめんと呟く。 「ううん、私の方こそごめん。こんな話、聞かされたって楽しくないよね」  そうして彼女は唇を三日月にした。握ったスカートに皺が寄る。立ち上がり、隣へ座り直した。葵の手にそっと僕の手を乗せる。微かに震えていた。危ないよ、と葵が身じろぎする。 「危なくない。君は友達を傷付けるような人じゃない」 「駄目。今、気持ちが昂っているから抑えが効かない」 「それじゃあ君は何もしないで。俺に任せて」  彼女の後頭部へ手を回し、自分の肩口へ抱き寄せた。涙が服へ染み込むのが伝わって来た。 「こんな力、欲しくなかった」  鼻声での訴えに、そっか、とだけ答えた。彼女の頭を撫でる。幼い子供をあやすように。 「何で異能力なんて持って生まれたのかな。お父さんとお母さんは私をどんな風に思っていたのかな。何もしていないのに人に嫌われるのは嫌だよ。普通に友達が欲しかった。遊んで、笑って、騒いで、じゃれ合って、そういう皆の当たり前を私もやりたかった。周りには誰もいない。私は一人。ううん、嫌われているから一人以下。ねえ。何で私は嫌われるの。私の性格も、悩みも、感情も知らないのに、どうして皆私を嫌うの。異能力者だからって理由は私自身を見ていない。もう嫌。もう嫌だよ、こんな力」 鎖骨に当たる彼女の額は、時折骨が砕けるのではと思うほど押し付けられた。だけど僕は何も言わない。声も出さない。黙って彼女の頭を撫でる。やがて葵も口を閉じた。部屋には嗚咽と雨音だけが残った。  翌日は快晴だった。一緒に葵のアパートを出る。女の子の家から朝帰りをするなんて、少し気恥ずかしい。葵は目元が腫れていたけれど、涙はすっかり乾いていた。一晩泣いて気持ちは楽になったのだろうか。 「今日は大学へ行きたくないね」  真面目な彼女にしては珍しい。だから僕はその意見に乗った。 「サボろう。ご飯を食べて、映画でも観ようよ。自由なのは大学生の特権だ」 「意味がわからないけど、ちょっとわかる気もする」  葵の白い手を取った。危ないよ、と彼女は反射的に応じる。 「言ったでしょう。俺に任せてって」  先を歩き腕を引っ張る。力なんて入れなくていい。握り返さなくていい。俺が握るから。そう思いつつ照れくさくて言葉にしない。ありがとう、といつものよく通る声が聞こえた。耳が、心が、こそばゆかった。  二人で過ごす時間が増えた。大学の外でもしょっちゅう会うようになった。 買い物に行った。彼女は雑貨が好きで、行きたいお店を調べては一緒に訪れた。見ているだけでも楽しい、と白い歯を見せた。葵の家でタンスの上に買った小物を並べる。二人掛けのソファに腰掛けて、それらを眺めた。葵はよく、僕の肩に頭を預けた。 映画を観に行った。ジャンルを問わず色々観たが、恋愛映画だけは僕が苦手なので断った。照れ屋なのと訊かれたので、都合の良い恋愛話は好きじゃない、と首を振った。 僕の家でお酒を飲んだ。力の制御が効かなくなるからと葵は断ったけれど、誰かと一緒に飲んでみたいといつか言っていた。我が家は元々家具が少なかったけれど、ちゃぶ台だけを残して全部片付けた。紙のコップと皿を用意した。壊す物が無ければ強い力も無意味だ。ありがとうと涙を流すので泣き上戸なのとからかった。お酒はまだ飲んでいなかった。 互いの家に泊まった。夜中まで話をした。葵の家ではベッド、僕の家では布団で一緒に寝た。横になった彼女に僕が手を回す。抱き寄せて、頭を撫でる。いつも葵が先に眠った。たまに彼女が寝返りをうつ勢いで壁に叩き付けられた。でも葵の人生に比べたら痛くも何とも無い。ただ、腕を折った時は、流石に大量のクッションを買って壁に貼り付けた。葵はその時もさようならと言ったけれど、腕の一本で終わる関係かと叱った。また泣くので頭を撫でた。一種の様式美だなとちょっと面白く感じた。 僕らの時間は明るく過ぎて行った。大学の人達は僕も合わせて忌避するようになった。だけど誰も彼も知らない人なので気にならなかった。僕には葵がいたし、葵には僕がいた。互いが隣にいれば十分だった。 そして迎えた卒業の日。葵に誘われて小高い丘の上に来た。桜が等間隔に植えられていて、風が吹くと花弁が舞った。降り注ぐ陽射しは暖かく、しかし花粉症の僕はずっと鼻と喉が痒かった。 葵が桜に手をかけた。綺麗だよね、と見上げる。 「私、桜は好き。花弁が特に好きなの。綺麗。可愛い。小さい。そして、あまりに弱くて私が壊せない」  手の中に舞い降りた白い破片。珍しく彼女は力を込めて握った。開いた手には変わらない花弁。 「勿論、破けたり皺になったりすることもあるけれど、大抵はそのままの形でいてくれるんだ。だから私は桜が好き」 「そうなんだ。面白いね」  葵の手から舞い上がる。薫、と彼女は僕を正面から見上げた。 「結婚しよう。私、ずっと一緒にいたい」  思いがけない告白。結婚、とな。 「え?」  それしか言葉が出て来ない。結婚。僕が、葵と。 「駄目かな」  彼女が目を伏せる。いや。いやいやいや。あのさ、と恐る恐る声をかける。 「結婚が嫌な理由は、私が異能力者だから? それとも性格が悪いと思う? 結局君も私を受け入れてくれないの?」  早くも取り乱す彼女に両の掌を向けて制止する。もう一度、あのさ、と言い直した。葵の目には早くも涙が浮かんでいた。 「俺達、そもそも付き合って無くない?」  その言葉に彼女が硬直する。涙が雲散霧消する。気まずい沈黙。吹きすさぶ桜。頭に付いた花弁を払う。いや、と葵が再起動した。 「付き合って、無い?」  疑問に頷きを以って答える。 「だってどっちも告白してないよ。俺、葵に好きって言ったことは無いし、好きって言われたことも無い」  葵の顔から血の気が引く。 「それにベッドにインはしたけれど、大人の行為どころかキスもしたことが無い。一番進んだやり取りは、手を繋いだことだ」 「そこはハグでいいと思う」  訂正が入った。手と抱擁なら確かに後者の方が進んだ関係に感じる。そうだね、と同意し頷いた。 「ともかく、だから俺達はまだ付き合っていない。友達なんだ。だからプロポーズは受けられない」  その言葉を聞くや否や、葵が傍らの桜を殴った。まだ僕は話し終わっていないのだが、折れて倒れ込んでくる大木を掴み彼女は振り被った。ふざけるな、と押し殺した声が届く。 「だったら思わせぶりな態度を取るな。どう考えても彼氏面をしていたでしょうが。舐めているの。おちょくっているの。浮かれる私を見て、内心舌でも出していたの」  違うよと叫ぶ前に、フルスイングされた桜の幹が眼前に迫った。  あんな別れになるとは思わなかった。そして相手が僕で無ければ葵は人殺しになっていた。そう、僕も異能力者だ。十分間、任意の生物に姿を変える力。それが誰にも教えていない僕の異能力。あの時はトンボに化けた。複眼と飛行能力を考えると回避行動をとるにはトンボが最適なのだ。しかし一つだけ、文字通り見誤っていた。一万を超える複眼により迫る桜の軌道は正確に見切った。だがそれはつまり、一万以上の目で迫り来る桜を見てしまったというわけで、常人ならば体感し得ない臨場感を伴って僕を殺しに来る桜の映像が記憶に焼き付けられた。あれから桜は嫌いだ。恐怖の対象でしかない。それに、後悔の象徴でもある。僕の言い方が悪かった。紡ぐ言葉の順を間違えた。僕は葵に、だからちゃんと恋人から始めよう、と伝えるつもりだった。急にプロポーズされて戸惑ってしまった。そもそももっと前に告白をするべきだった。何となく、関係がはっきりしないまま過ごしてしまった。急にはっきりさせようとしたからあんなことになってしまった。全部僕が悪い。  桜をフルスイングした葵は、地面に僕の服が落ちているのを一瞥した。そして大木を投げ捨てると泣きながら走り去ってしまった。声を掛けようにも一度化けると十分は解けない。トンボとして彼女を追い掛けるしか無いのだが、それも叶わなかった。何故なら服が脱げているから。いきなり街中へ全裸の男が現れたら、しょっ引かれてしまう。勿論服を着てから電話をかけたしアパートも訪れた。メールも送ったけれどその日の内にアドレスが変えられていて届かなかった。手紙を書いてポストに投函もした。返事は無かった。読んでくれなかったのだと思う。そのまま社会人になり、いつしか何もしなくなった。もう五年も前の話だ。 毎年、桜の咲く時期には喧嘩別れに終わった丘を訪れる。嫌いな桜に囲まれて、あの日に思いを馳せる。今でも眼前に桜が迫る夢を見ては飛び起きる。言葉を間違えた自分を殴りたくなる。彼女は元気でいるだろうか。いじめられていないと良い。誰かと一緒にいると嬉しい。そんな、わかりもしないことを延々と考える。そして厚かましくも、もしかしたら彼女に再会出来るのでは、と微かな期待を抱いている。だから僕は、嫌いな桜の咲き誇る丘を今年も訪れる。そんな都合の良い恋愛話なんてあってたまるか、と思いながら。
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