庭の桜

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「それにしても三人で飲むのは久し振りだね」  グラスを置いた木下がしみじみと呟いた。そうだね、と静かに応じる。 「田中に会うのは俺らの結婚式以来か。もう三年も経つじゃん」  うん、と俺は酒に口を付ける。気を遣うんでしょ、と倉橋が俺をフォローした。何で、と無神経な木下が首を傾げる。 「私と貴方が夫婦だからだよ」  その言葉に深く頷いた。木下と倉橋は大学のサークルで同期生だった。当時から三人でよく遊んでいたし、卒業してからも年に数回顔を合わせていた。花見をした。海辺でバーベキューをした。母校の学園祭を訪れた。忘年会を開いた。振り返れば酒を飲んでばかりだ。  だから二人から結婚式の案内が届いた時には心底驚いた。付き合っていることにすら微塵も気付かなかったのだ、結婚なんて想像が及ぶはずもない。慌てて木下に電話をかけると、ごめん、何か言い出し辛くて、と謝られた。そして式の前に一度三人で居酒屋に集まった。 「田中には、俺達が付き合っていることを早く伝えなきゃと思ってはいたんだけどさ。距離感が近いと逆に恥ずかしいと言うか、気まずいと言うか。ごめん、報告しないまま式の案内を出しちゃって」 「他意は無いの。ただ、うん。本当に何か言い出し辛かったとしか表現出来ない。ごめん」  二人とも同じ言葉を口にした。寂しくはあったが、それ以上に色々と気になってしまった。いつから付き合っていたのか。どこの時点から俺がお邪魔虫になっていたのか。二人は俺を邪魔者扱いなんてしないとわかっている。それでもやっぱり気が引けた。お祝いのペアタンブラーを渡した。三人で記念撮影をした。だけど笑顔を浮かべながら、内心では全然楽しくなかった。そして結婚式で口づけする二人を見て、祝福の気持ちはありつつも俺はずっと邪魔をしていたのだなと改めて溜息をついた。隣で拍手をしていた八田先輩が、田中君はいつから知っていたのと俺をつついた。 「二人が付き合っていたことですか。多分、先輩と同じタイミングで知りましたよ」 「一か月前の招待状? まさか。君達三人、凄く仲が良かったじゃない」 「仲が良いから気まずくて言い出せなかったそうです」  軽い調子で答えたが、先輩に爆笑されてまた傷付いた。俯いていたら流石に慰められた。結局その日は終電まで付き合って貰った。君の後輩力は相変わらずだな、と頭を撫でられたのが今では少し恥ずかしい。あの人も元気でいるだろうか。  それはともかく、結婚式以来、二人の時間を邪魔しちゃ悪いと自分に言い聞かせて木下夫妻には連絡を取らなかった。向こうも俺に声をかけなかった。もう会うことも無いかも、と薄っすら感じていたのだが、先週急に倉橋から電話がかかって来た。久し振りに三人で会おうと誘われて戸惑った。しかし断るのも逃げるようで嫌だ。迷いながらも承諾した。  そうして今日の再会に至ったわけだ。時間が経ったからなのか、三年前のような気まずさや寂しさはあまり感じなかった。大人になったのか、感受性が鈍くなったのか。 「しかし君らが夫婦か。改めて思うと感慨深いな。こっちは相も変わらず独身だぜ」 「いい人、いないの? 田中、性格はいいし見てくれも悪くないのに」 「いないよ。でも褒めてくれてありがとうな倉橋」  倉橋は当然今は木下なのだが、俺は二人を名字で呼んでいたので今日も旧姓で呼び続けた。嫌がられない限り変えないと思う。 「俺の知り合いを紹介しようか」  木下の申し出には手を振る。 「ありがたいけど上手くいかなかった時に申し訳なくなるからいいよ」 「まあ上手くいかないだろうな」 「失礼な。だったら初めから申し出るな」  懐かしいじゃれあい。拍子抜けするほど二人とも変わっていない。三年間、連絡を取らなかったことを少し後悔した。結婚しようが夫婦になろうが二人は俺の友達で、でもそこを見失っていた。そうか、大人になったと言うより俺が子供過ぎたのか。 「懐かしいな、こういうやり取り。落ち着くよ」  木下に負けず劣らずしみじみと呟く。ちょっぴり照れ臭いけれど、ちゃんと言葉にして伝えたかった。それを聞いた二人は顔を見合わせた。青臭いな、とでもツッコまれるだろうか。しかし木下は意外な言葉を口にした。 「実はな。今日はお前に相談があって声を掛けたんだ」  夫婦揃って背筋を伸ばす。急に真顔にならないで欲しい。 「何だよ、改まって」 「田中なら忌憚のない意見をくれると思って」  倉橋も真っ直ぐにこちらへ視線を送る。人妻に見詰められていると思うと少し顔が熱くなった。木下がスマートフォンを取り出す。見せられた画面には広い庭の一軒家が映っていた。 「今度、この家を買うんだ。都心からは二時間くらい離れちゃうけど、庭が広くていい家だろう」 「まあ、そうね。でかい家だね」  浮かぶままに感想を述べる。木下が画面を操作した。次に表示されたのは一本の桜の木だった。倉橋が唇を噛む姿を目の端で捉える。 「そしてこの桜は、俺の母校の中学校に植えられているんだ。不思議なことに、入学式も、卒業式も、俺はこの木の前で写真を撮った。実は今度、母校が統廃合により無くなることになったんだ。当然、この桜も伐られてしまう」  腕を組む。三年の空白があろうとも友人の間柄である。話を読むのは簡単だ。 「お前、新築にその桜の木を植えようとしているわけ」 「よくわかったな。流石田中だ」 「どう思う、田中。庭にいきなりこんな桜の木を植えるのって」 「その口ぶりだと倉橋は乗り気じゃないのね」  気持ちはわかる。だって倉橋の下の名前って。 「私の名前、桜だからね」  そりゃあ気乗りはしないだろう。ところが、それがいいんじゃないかと木下は両手を広げた。 「桜の下で桜とのんびりしたい。ロマンティックだと思わないか」 「木下が木の下でぼーっとしているって言われて嬉しいか」 「木下桜が桜の木の下でのんびり出来ると本当に思うの」 「ダジャレをロマンと主張するのは木下くらいだ」 「絶対親戚やご近所からいじられる。私は嫌。折角庭が広くても桜に占領されちゃうし」  双方向から滅多打ちにする。そこまで否定するなよ、と木下は酒を煽った。 「何でお前らにはわからないのかなぁ。俺とは不思議な縁のある桜なんだよ。部活でボールが引っかかったのも、カツアゲされた時に押し付けられたのも、車を避けたら転んで頭から突っ込んで三針縫ったのも、全部あの桜だったんだよ」 「ろくな思い出がないじゃん。よくそれで自宅に植え替えようと思ったな」 「良いものも悪いものも、詰まった思い出を捨てたくない。何もしないままこの桜を伐られたら、俺は絶対に後悔する。だから自宅に植え替えたい」  あれまあ、随分と頑固だ。倉橋が俺に向かって身を乗り出す。 「田中、何とか説得してよ。私、嫌だよ。でもいくら頼んでも聞いてくれないの。こいつ、桜に憑りつかれたのかな」  夫婦間で解決出来ないことを三年ぶりに会う友達に何とかしてくれと頼むとは、よっぽど議論が平行線を辿っているのだろう。こういう話には首を突っ込まない主義なのだが、たまには仕方あるまい。いくらなんでも桜の家に桜は可哀想だ。お祓いは出来ないけど、と渋々切り出す。 「木下、現実的なことは考えているのか」  俺の問いに、現実的って、と首を傾げる。 「大きな木ってな、意外と世話をするのが大変なんだよ。虫がつく。花や葉が散る。根っこや幹、枝だってどんどん伸びる。定期的に剪定をしなきゃいけない。成長し過ぎて庭から道路に飛び出てみろ。車を傷付けたり電線にぶつかったりしたらどれだけ責任を負わされると思う。金も手間もかかるんだよ。おまけになまじ立派に育ったら、通行人が見物していくわな。その内、庭の外で勝手に花見気分で酒を飲んだ奴がゴミを投げ入れるかも知れない。まあそれは極端な例だけど、写真も撮られるかも。そうしたら洗濯物も外に干せなくなるぞ。パンツ、日光に当てたくないか」 「当てたい」 「ごめん倉橋、ありがたいけど変なタイミングでの援護射撃はやめて。俺が気まずい。ともかく、そもそも植え替えの費用だって馬鹿にならないだろ。ほら、木のサイズと輸送費、人件費を今簡単に調べたけどな。少なく見積もっても十万円以上はかかるぞ。家も買うって時期に、こんな額を出せるか? 出せるとして、倉橋が納得していないのに気が咎めないのか?」  木下は俺と倉橋を交互に見た。澄んだ目をしている。 「出せるし咎めない」  思わず俺が倉橋と顔を見合わせる。いいのかお前はそれで。いいわけないでしょ。そんなやり取りを言葉も無しに交わす。咳払いをして俺は何とか話を続けた。 「そうか。いや、それは夫婦間で決めてもらうとしてだな。さっきも言ったように手間暇かけなきゃならないし、その都度お金だってかかる。何より一つの命を預かる覚悟がお前にはあるのか。奥さんの制止を振り切ってまで、あの桜を庭に植えたいのか。全部踏まえて考えたのか。今、自信を持ってそうだと言えるか」  相変わらず綺麗な目をした木下が、深く頷いた。 「言える」  こんなにはっきり宣言されては返す言葉が見付からない。倉橋に向き直る。 「ごめん。説得は無理だ」  素直に頭を下げる。しかし倉橋は、どうしてくれんのよ、と頭を抱えた。 「旦那の決意が滅茶苦茶固いのを再確認させられただけじゃない。田中にここまで言われて尚折れないって、これ以上は私からも突っ込み辛いんですけど」 「知らないよ。俺はやめた方がいい理由を並べたし、覚悟の有無も確認した。あんなに力強く頷かれたら、そっか、しか言えないよ」 「それを説得するために君を呼んだの。ちゃんと働いてよ」 「そのために呼ばれたなんて知らないもん。何だよ、久々に会えて嬉しかったのに。この件に関して責められる謂われはないよ」  怒りの矛先が俺に向いたので懸命に弁解する。俺はただ友人二人と酒を飲みに来ただけ。どちらかと言えば無茶ぶりにも頑張って対応した方だ。 「桜。折れてくれないか。桜だけに」 「折れちゃ駄目だろ」 「上手くないし凄いムカつく」  よくその台詞にドヤ顔をあてがえるな。大体ね、と倉橋は旦那に向き直った。そうだそうだ、俺じゃなくて元凶とやり合うがいい。 「そんなお金、どこから出すのよ」 「俺達、共働きだろ。余裕はあるじゃないか」 「桜のために働いているわけじゃないわよ。桜が桜のために働いてたまるか。あぁもう、自分でもネタにしちゃうのが腹立たしい」  木下よりうまいぞ、と野次を飛ばそうかと思ったが自重する。 「大体、腹が立つのは事前に相談が無かったことよ。家を決める時、桜のことには少しも触れなかったじゃない。庭が広くていいよね、としか言わなかった。職場はお互い都内だから通勤は大変になるけれど、その分休日にリフレッシュ出来るようしっかりとした家を買おう。貴方はそう主張したのよ」  木下が頷く。俺なら毎日往復四時間もかけて出勤したくはないけれど、価値観は人それぞれ。それに身軽な独身とは考え方も異なるだろう。 「それが購入を決めてから桜を植えたいって言い出すなんて、卑怯じゃない。廃校に決まったのも、桜が処分されるのも、私達が家を探す前に決まっていたのでしょう。桜ありきで家を買うんじゃないわよ。桜ありきで決めなさいよ」  それにしても二人とも見事なイントネーションの使い分けにより人の桜と木の桜を区別して喋っている。これ、文字に起こしたら混乱するだろうな、とどうでもいいことを考えつつ酒に口を付けた。 「いや、でも桜だってこの家がいいって賛同してくれたじゃないの」 「あんなでかい桜を植えたいなんて知らなかったからね。それに家自体は好きよ。聞いてなかったの? 私は家がどうこう桜がどうこうで怒っているんじゃないの。夫婦なのに卑怯な真似をしたことを咎めているの。私の反対には耳を貸さないし、何なのよさっきの決意の固さは。少しはこっちの意見も聞き入れなさいよ」 「だって運命的な桜なんだもん」 「運命の相手である桜が反対しているのだからこっちを向けバカ。バカ旦那。桜バカ」  もう一口酒を煽る。熱くなっているのはよくわかる。でも第三者である俺からすると、奥さんが旦那さんに向かって自分のことを運命の相手と表現したのはなかなかどうして、ふふ、酒が進む。それこそ一緒にバカやった二人が運命の相手ねぇ。こちらは寂しいこってすなぁ。 「どっちも運命の相手だから、桜も桜も一緒にいて欲しい」  しれっと旦那も惚気ましたよ。喧嘩しているのか俺に見せ付けているのか。  倉橋は肩で息をした。深呼吸を何度もする。流石にもう少し冷静に話を進めなければいけないと思ったのか。大人だもんね。 「百歩譲って、かかる費用や手入れ、掃除を全部貴方がやるのなら植栽を考えないでもない」  しかし木下は手を振った。 「無理だよ。俺、給料少ないもん。君の方が稼いでいるから、ちょっと融通してよ」  おぉ、衝撃の事実。金は出せないから払ってくれと。乗り気でない相手によくそんなことを頼めるな。嘘でしょ、と倉橋がこめかみを押さえた。 「私にお金を払えっての。本当に、桜が桜のために働くことになるって言うの」  ちょっとその言い回し、気に入っているだろう。ツッコミたい。弄りたい。しかしぐっと堪える。大人だからね。 「桜のためっていうか、お互いの生活費や貯金を融通して、その中から桜にかかる費用も出そうと。そういう話だよ」  しかしここまでこだわる木下も異常だ。本当に憑りつかれているのかも。生憎、霊感は零なのでわからない。  倉橋が背もたれに寄りかかった。ごめん、と力なく天を仰ぐ。 「もう無理。私、帰る。田中、ごめんね。折角久々に会ったのにこんなことになって」  気にすんな、と片手を挙げる。 「待てよ。帰ることはないだろう」  倉橋は旦那を一瞥し、返事もせずに去って行った。何だよあいつ、と桜の亡者が酒を煽る。 「いや、倉橋が可愛そうだと思うよ。桜の家に桜はキツいって。しかも金もかかるし、お前は払えないんだろ。もう少し奥さんに歩み寄ってあげなよ。枝を貰って接木にするとか、押し花で我慢するとかさ」  しかし木下は首を横に振った。あの桜じゃなきゃ駄目なんだ、と拳を握る。 「さっきも言ったように俺にとっては特別な桜なんだ。実は、俺の初恋にもあの桜の木が関わっている。当時、好きだった先生がいた。俺が中二だった三月のことだ、先生は異動で学校を去ることになった。桜の木の下で、先生に想いを伝えた。笑って褒めてくれたけど、残念ながら気持ちは届かなかった。その時にかけられた言葉を鮮明に覚えている。君もいつかこの桜みたいに立派な花を咲かせなさい。私はその邪魔をしたくないの。先生はそう言って微笑んだ。あれは先生との約束の木なんだ。だから俺は絶対に伐らせるわけにはいかない」  力強く長々と語ってくれた。本人にとっては大事な思い出なんだろう。だけど俺には、美化された記憶が原因で奥さんが店を飛び出すほどの喧嘩をするのは、ひどく間抜けだし失礼に映った。こいつは過去に囚われて今に目が向いていない。 「倉橋にはその話、したの」 「言えるわけないだろう。反対している奥さんに、初恋の桜だから何とか植えさせてくれ、なんてさ」 「あ、微妙に良心は残っているんだ」  溜息をつき酒を飲む。田中はわかってくれるよな、と身を乗り出した。頬杖をつく。 「お前が桜の木に執着している理由はわかった。その上で友人として言わせてもらう。お前は旦那失格だ。初恋の桜がどれだけ大事か知らないが、お前が今一番大切にするべきは木下桜だ。そんなこともわからないで自分の主張ばっかり突き通す奴にかける言葉は無い。俺も帰る。少しは一人で反省しろ」  さっきまでは内心で茶化していたが、落ち着いて木下を見ていると無性に腹が立って来た。正論を投げ付けると、何だよ、と奴は立ち上がった。 「田中まで思い出を馬鹿にするのか」 「俺が馬鹿にしているのは今のお前だよ。思い出なんていくらでも大事にすればいい。だけどそいつに絡まって足を取られているのに気付かないお前は馬鹿だって言ってんの。三年も夫婦をやっていて、倉橋のことを見てもいないんだな。ここの金は置いて行く。じゃあな」  そうして俺も店を出た。木下は追って来なかった。 「今でも嫌い? 桜のこと」  桜並木を並んで歩く。俺の問いに、嫌いだよ、と彼女は目を細めた。 「何もかも、滅茶苦茶になったから」  倉橋は木下と離婚した。木下一人の稼ぎだけでは家も桜もどうにも出来ず、あいつは全てを失った。桜が伐採される日に校庭へ現れて、伐採業者に乱暴を働き捕まったと聞く。今、何処で何をしているのかは知らない。件の桜は結局伐られた。家庭も、桜も、友人達が歩むはずだった人生も、全部無くなった。  そして今、俺の隣には倉橋がいる。あの日、駅で泣いていた彼女に声をかけた。三年も会わなかったのが嘘のようにそれから何度も相談に乗った。木下と別れようと思う、と告げた時。この大切な友人を必ず支えると心に決めた。 「嫌いだけどさ。でも、桜自体に罪は無いのだものね」  彼女の言葉に、どうだろう、と肩を竦める。木下が本当に桜に憑りつかれていたのだとしたら、あの一本には罪がある。だけど全部無くなってしまった。もう誰も、何も責められない。罪の在り処は有耶無耶だ。そして、桜という種そのものに罪があるか無いかは知らない。地球にでも訊いてくれ。 「俺は好きだよ。桜」  俺の言葉に小首を傾げる。二人と違ってイントネーションを上手く変えられないんだ。どっちの、と問う彼女に手を差し出す。どっちだろうねと笑いかけた。内心では、物凄く恥ずかしい言い回しをしてしまったと焦っていた。桜に関わると人はダサい言葉や寒いダジャレを口にするようになるのか。そんなわけないと頭では理解しつつ、もし本当にそうなのだとしたら俺は桜が嫌いになるなと思った。  繋いだ手に、一片の花びらが舞い落ちた。
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