200人が本棚に入れています
本棚に追加
椿屋くんほど性格がわるい人のことをわたしは知らない。だって、どうしてこんな酷いことを言えるのだろう。スピーカーにのらないよう息さえ潜めているわたしを差し置いて、よくもまあ、なんてひどい。
とはいえ、心の奥底では期待していたのも事実である。そりゃあ好きな人がわたしであるだなんてそこまで思い上がってはいないけど、ほら、まあ嫌われてはいないだろうって。
『椿って、おれの神経を逆撫でさせるのほんと得意だよね』
冷えていた空気が凍りつくのは、是永くんの溜息よりも早かった。さすがの椿屋くんも起きかけた事故を察したらしく、こちらをちらりと不安げに盗み見た。
「ごめん、怒った?」
『とっても不愉快、おれがいちばん嫌いな女だよ』
あ、そっか。そうだよね。そうだとしても、ここまで残酷な真実は知らないままでいたかったな。
それ以降の記憶は曖昧で、朧げな視界でわたしは本能のままに行動していた。耳の遠くでふたりの会話を聞きながら、突き刺す頭痛のように是永くんの本音が脳の内側で反響している。
『電話なんかしなきゃよかった。どうせ誰かといるんでしょ?』
「え、なんでわかるの」
『殺意さえあれば何でもわかるよ。じゃあね、女の子が帰ったらまた連絡して』
もともと感情の起伏が荒い方ではないので、ぷつんと脳内の血管か何かが断絶したのはこの一度きりだ。「悪魔に乗っ取られたせいだ」という殺人鬼の言い訳に混ざる、ひとつまみの真実はこれかもしれない。
近くに鞄があったのも、その鞄の手前側にペンケースがあったのも、そのペンケースの中に鋏が常備されていたのも、どれもこれも良くなかった。
理性を失ったわたしが凶器を握れる環境なんて、オゾン層ごと破壊すべきだったのだ。
「っく、」
滑らかな筋肉に刃物を突き立てた感触が手に残り、力が抜けてスローモーションで鋏が落ちていった。目の前には綺麗な背中を切り裂こうとする新しい傷。滴る鮮血を見て、わたしは自分が犯した罪を理解した。
「大丈夫だよ、誰にも言わないから」
凶器が文具の鋏とはいえ、激しい痛みを伴う傷であったに違いない。それなのに椿屋くんは困ったように笑って首を振った。
膝から崩れ落ちながら謝罪を繰り返すわたしを見て、羽が生えた背中から鮮血を垂らす美少年はこれ以上ないほど幸福そうに微笑んでいた。
──その不気味な歪さと麗しい微笑みが、三年近くが経った今でも頭の裏側で浮かんだり消えたりし続けている。
最初のコメントを投稿しよう!