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この玄関に入ってすぐ「椿屋くんの匂いがするな」と感じているのは、わたし自身が塗り潰されていない証拠である。
「では、お邪魔しました」
白い靴下を履いた両足を黒い革靴に突っ込むと、爪先からひんやりと冷気が伝わってきた。
呼び出されたから来ただけのわたしはお邪魔しただなんて思ってないけど、礼儀として口にする。そういう他人行儀が心地よい。
「染井さんって、まだ是永のこと好きなの?」
「教えたくない」
「是永なんかに惚れてるの、自傷行為じゃん」
「自傷行為でしか生きている実感が得られない人もいるんだよ」
玄関のドアを開けながら言い返すと、椿屋くんはすーっと目を細めて訝しげにこちらを見遣った。別に理解してもらいたかったわけでもないので「ま、大天使様にはお分かりいただけないだろうけど」と負け惜しみを吐き捨てて外に出る。
するドア冷気が突き刺してきて、瞬時に耳が痛くなった。その両耳を背後から抱きしめるように温かい手であまく塞いだ椿屋くんが耳もとで囁いた。
「分かりたくなかったよ」
たぶん、そう言ったのだと思う。そう聞こえたけど、自信はない。
わたしは頭を緩く振り、両耳に添えられた手を邪念ごと払い落としてから「じゃ、おやすみ」と挨拶をして歩き出した。
マンションの廊下はまるで外なので北風がびゅうびゅう吹き込んでくる。寒いので自然と小走りになって、歩き慣れ過ぎたそこを自動操縦モードで抜けていった。
「染井さん?」
マフラーに顔を埋めてもまだ寒いので風を避けるために俯きながら歩いていると、マンションから出てすぐの駐輪場の前で名前を呼ばれた。
反射的に顔を上げると、黒いコートを着込んだ美少年が立っている。ただし濡れたように黒い髪はあまり手を掛けられておらず、襟足が僅かに伸びていた。
これはさすがに椿屋くんではない。
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