10人が本棚に入れています
本棚に追加
貸しイチ
お金を持ってない平山は、U大正門前のコンビニに入る直前で急に態度を変えた。
「昨日は…その…俺は…男子のグループのリーダーだから、つい調子に乗って悪かった」
何か奢って欲しくて下手に出てる。あたしは悪かったという謝り方が気にくわない。小説の中でもドラマでも、男の人が「悪かった」と謝るシーンは嫌い。それは謝る言葉じゃないから。
「悪かったじゃなくて、ごめんなさいでしょ」
奢るか奢らないかはあたし次第。目一杯強気に出ると、渋々小さな声で平山は謝った。
「ご…ごめんなさい…」
意外と素直だから、仕方なくコンビニで奢ってあげた。千円しか持ってないから平山への奢りは三百円まで。紙パックジュースと100円スナック菓子を真剣に選び取った平山は、U大の中庭の御前池のベンチではしゃぐ。
「遠足みたいだよな、こういうの」
あたしは生返事で頷く。ミルクティーを片手に雑誌コーナーで適当に選んだ小さな手帳サイズの活字の雑誌を読む。
「それ面白いの?」
「さあ。活字の方が写真が多い雑誌より時間を潰せるから買っただけだからわからない」
平山が覗き見してくる。記事の見出しは『隣にいて楽しい人、つまらない人』という大人向けのエッセイ風の文章。
「俺さあ、文字の本とか読んでると眠くなるだけで面白くないんだよなぁ」
雑誌への興味はすぐ失ったようだ。500㎜の紙パックのジュースを飲み終わってしまった平山は、スナック菓子の塩気で喉が渇いたらしい。
「悪い、そのジュースくれない?」
平山はあたしがベンチの傍らに置いておいた、ストローが刺されたペットボトルのミルクティーに勝手に手を伸ばす。
水色の縦縞が入った透明なストローの先端には、校則で禁止されてる色付きリップの薄いピンクが滲んでいる。水色の縦縞と落ちたリップのピンクが重なり合って薄紫の藤色のまだら模様を作り出していた。
一瞬だけ平山の視線がストローの先端に向く。そしてわざとらしくあたしの顔を、いや口元を見つめる。
「あー、うめえけどしょっぱい。スナック菓子って喉渇くよな?」
自分では見えないけれど、薄いピンクの色付きリップが剥がれ掛けた唇は、きっと本来の赤みを帯びた色が見えるに違いない。
ストローに気づかないふりをして、平山はロイヤルミルクティーをチビチビと飲む。時折私の唇を横から盗み見しながら。
雑誌を読んで視線を彼から外して平山の反応をからかうように楽しむ。不意に平山のスポーツ刈りの髪のザクザクとした感触が近づく。
ベンチから立ち上がってあたしはするりと逃げた。キスはもう少し大人になってから大人の男としたい。小説やドラマに出てくるような、歌って踊るアイドルのお兄さんのような人と。
ばつが悪いのか、平山は何も言わずにミルクティーを飲み干すと、水の石切りで遊び出した。石が水面を跳ねていく。そんなに深い意味のない単純な遊びなのに、今日はどうしてなのか、いつまで見ていても飽きない。
あたしはからだの中の卵の事を急に思い出した。まだ大人になりきれないのに、卵は規則的にお腹にやってきて、お腹は卵を守るために壁を作る。卵が赤ちゃんになれなかったら、壁は月経として排出される。なんで、壁は毎月新しくしなきゃいけないんだろう?この御前池の水のように留まってくれれば楽でいいのに。
石切りの石が水面を跳ねるように、ずっと変わらない柔らかい壁さえあれば辛くないのに。
毎月毎月、鈍いお腹の痛みと言い現しきれない不快感。始まったばかりのそれは何十年もあたしの意思とは無関係に規則的に続くんだ。
「ビョードー」なんかじゃない、先生はやっぱり嘘つきだ。女は選べない。規則的に回る卵を守る車輪のリズムから逃げられない。男は選べる。そーいう興奮が欲しければそーいう何かを探して、好きなタイミングを選べる。
自分が女であるという事実が猛烈に嫌になる。手が滑ったことにして、石切り遊びの小石を、平山のスポーツ刈りの後ろ頭を目掛けて投げる。八つ当たりの的にちょうどいい。
「痛ってぇな、どこに投げてんだよ」
振り返って無防備な顔の平山に向かって呟く。
「女の痛みを少しは思い知った?この十倍は痛いからね。なぜ男には卵と壁がないんだろう?生理もないんだろう?」
真剣な顔つきのあたしを見て、平山は少しだけ考え込んでいた。そして馬鹿な牛の群れのような男子グループのリーダーにしては、まあまあ気の利いた答えを出した。
「男は自分勝手で卵をちゃんと守らないから神様から卵を取り上げられたんじゃね?」
「そっか…。じゃあ、あたしも卵を粗末にして守らないでいたら、神様が取り上げてくれるかな?痛いし面倒臭いし卵なんていらない」
「ごめん…いや…すみませんでした。昨日、酷い事を言って本当にすみませんでした」
ベンチから立ち上がって頭を下げて謝る平山を見て、屈んで下から顔を覗き込む。
「あたしもセクハラみたいな事言ったし、ごめん。もういいよその話は。そろそろ帰ろう、学校が大騒ぎになるから」
U大の御前池から小学校に帰ると、先生達が大慌てで迎えてくれた。廊下に立たせた事が発覚すると先生の体罰がバレて不味いから、叱られることもなくただただ心配された。
担任の宮本先生の前で殊勝な顔を作って、あたしは言った。
「平山くんと話し合いをしてお互いに謝りました。学級会で皆の前で謝るのは恥ずかしかったけど、二人でとことん議論したらちゃんと謝れました」
宮本先生は自分のプライドが満たされたのか、
「良かったわねぇ」
シワだらけの顔で微笑んでいた。
コンビニの奢りと間接キスで釣って、結果的に平山が謝ってきたなんて言えないもんね。かなりの石頭だから、このオバサンは。平山が含み笑いをしてこっちを見てる。もう少し賢くて頭が良ければタイプなんだけど、平山は微妙だからナシ。卵を守る役目を押し付けられた分、女が男を選ぶ目は厳しい。
卵を任せるのに相応しい男と、あたしはいつか出会えるんだろうか。それとも卵の存在を無視して独りで生きていくんだろうか。嫌だと思っても知らぬ間に大人になるからだは、心を置き去りにして曲線的な丸みを帯びていく。からだのあちこちの線が鶏の卵の殻のような、なだらかなカーブで縁取られていく。
小さな恐れと微かな期待を胸に秘めて、あたしは女の子から女になることを戸惑いながら受け入れ始めた。
(了)
最初のコメントを投稿しよう!