side 柚原光輝

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side 柚原光輝

「柚原さん、これこの通りで良かったですか?」 「あ?あぁ……いいんじゃねぇ……いいんじゃないでしょうか、上条……さん」 隣のデスクからひょっこり顔を覗かせた俺の部下、上条蒼也(かみじょうあおや)を見ながらそう答えた。 丸い銀縁のメガネをかけて、おそらく会社一高級なオーダーメイドのスーツを着て、キレイに整った髪型と顔立ちの上条は、そんな俺の返答に、「ありがとうございます」と丁寧に返してきた。 俺は柚原光輝(ゆずはらこうき)。30歳。独身。 新卒で入ったこの会社の営業として働いている。人と話すのは苦ではないし、むしろ好きな方。大体どんな奴でもそこそこ馴染める。 彼女は2年前に別れたきりで、今はいない。 当時、結婚をせがまれたけど、まだそういう気分ではなかった俺と彼女の間で歪みが生じ、別れることにした。 仕方ない、だって俺はまだ家族を持つ自信もなければ、そもそも結婚に興味がなかった。 いつかしたい、という願望も特にない。 30歳になり周りはちょこちょこ結婚したり、子供ができたりしてるけど、まあ俺には関係ない。 俺は、今の会社で順調にキャリアを積んできたし、仕事に対して不満はない。特に上を目指したい気持ちもないから、まだしばらくは、この居心地のいいポジションで仕事をしていたかった。 ーーーなのに。 そんな俺の穏やかな日常は、ある日突然奪われた。 今、俺の隣に座る上条蒼也に。 こいつが俺の直属の部下になってからもうすぐ1ヶ月。 まだ23歳。半年の新人研修を終えて、営業部に正式配属されてきた。 そして、何故か名指しで俺が社長から、上条の教育係になるよう言い伝えられたのだ。 「柚原さん」 「!……あ、なに?……なんですか?」 「……あの、いつも言っておりますが」 上条は椅子ごとぐるっと俺の方を見た。 俺は思わず椅子に座りながら後ずさる。後ずされるスペースなど、たいしてないというのに。 「俺に敬語使うのはやめてください。加古川さんに接するのと同じで構いません」 加古川、というのは同じ営業部の社員で、俺の部下。上条よりは2つほど上だったか。加古川には俺はわりと容赦ない。敬語なんか絶対使わないし、俺が飲みたい気分のときは強引につれ回したりしている奴だ。今日は訪問先から直帰だから、誘ったりできないが。 上条のセリフに、頬がひくつく。 そんなこと言われたって……無理だろ。 上条は加古川とは全然違う。 だって、上条はーー 「あの、すみません!上条さん」 「あ、はい?」 「2番にお電話です、あの……社長から」 営業事務の緑川が少し固い声でそう言った。 上条は丁寧にお礼を言い、俺に断りを入れて社長の電話をとった。 ……ひとまず助かった。 俺はデスクに向き合い直すが、隣からは上条の声がする。 「はい……はい。わかっています」 「………」 「大丈夫。はい、じゃあ俺、仕事してますので。お疲れ様です、社長ーー父さん」 上条の声に、耳がピクッと勝手に反応した。 父さん、というのは電話の相手、つまりこの会社の社長、上条光介のことだ。 社長はまだ40代前半で、二十歳で息子を授かったらしい。そんな噂は入社した頃から聞いていたが、しかしまさか、その息子にこんな近くで会うことになるとは、まったく思っていなかった。 上条蒼也は、そんな社長の一人息子。 常々父親からの寵愛を受けているようだ。 ーーただの新入社員なら、6つも7つも年下の新人。こんなに気を張ることもないのに。 「すみません……社長が」 「……いや、社長なんだって?」 「あ、いや……プライベートのことですので。会社にかけてくる電話じゃないのに……恥ずかしいです」 「……社長は本当に上条が大切なんだな」 「ただの過保護です」 それより、と上条はまた話を蒸し返す。 「柚原さん、俺に敬語はもうやめてくださいね」 「………」 上条はそう言って、仕事に戻っていく。 俺は椅子を戻しながら、頭の中で考える。 ーー無理だろ。社長の息子だぞ。しかもかなり溺愛されてる。 社長は仕事もできるし愛想もいいし、社員想いだし基本的にデキる人だ。だが、愛息子のことになると、人の親。上条が怪我したと聞けばどんな大事な商談中でも病院にかけつけるし、成績が下がったと聞けば、教科別に優秀な家庭教師をつけて勉強させたという。 上条に好きな女の子ができたといえばーー……想像したくないほどの事態が待ち構えていたというし……。 俺はそんな上条親子の噂話を思いだし身震いした。 なんでそんな息子が、こんな営業の端っこに来るんだよ。どうせお前、次期社長なんだから社長秘書でもやってろよ。 営業マンも、事務の女性社員も、お前が来てからの1ヶ月、どう接すればいいのかめちゃめちゃ悩んでるぜ? 幸い、上条は仕事はできる方だ。覚えも早いし、マジメだし。いや、むしろマジメすぎるくらいだ。 御曹司だからって、手を抜かれたりやる気をなくされては、たまったものじゃなかったが、上条にはそういう気配は一切なかった。 ……だから余計に、皆、扱い方に困ってるんだけど。 「上条………」 「はい」 「……いや。……あ、そうだ、明日O社のプレゼンだろ。資料渡したやつ、読んだか?」 「はい。頭にも入ってます。……今、暗唱しましょうか?」 俺は首を横に降る。覚えているなら結構だ。 上条がマジメで覚えの早い奴で、本当に助かった。 上条蒼也。23歳。 俺の穏やかで安定した生活に水をぶっさしてきた張本人は、会社の社長の息子だった。
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