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病院には一時間半ほど滞在した。自分でも大丈夫だろうとは思っていたが、軽い貧血と言われただけだった。
同行した上条は、その診察結果に胸を撫で下ろしていた。
司馬の車でそのまま社長宅に向かう。
車内では会話はほとんど交わさなかった。
後部座席で上条ととなり同士だったが、時折右折や左折をする際、身体が傾いて、肩が軽く触れあった。
………ドキドキした。そんなことくらいで。
俺は、叫びだしたい気持ちになりながらも、頑張って耐えた。
そしてまもなく21時を迎えるという頃。
ようやく社長と上条の自宅マンションに着いた。
*****
「遅くなってすみません」
今日は前回のロビーのようなところではなく、社長の自室に通された。
これまた立派な部屋だ。こんなとこに住めるなんて羨ましい。
社長は、着替えなかったのか、帰宅したばかりなのかはわからないがまたしてもスーツ姿だった。
「いや、司馬から聞いた。倒れたって大丈夫か?病院では、なんて?」
「軽い貧血で、それ以外は大丈夫だと。自分でももう元気です。ご心配おかけしました」
「……そうか。もし週明けも体調に異変を感じるようなら遠慮なく病気休暇を使え。いいな」
……そういうこと、サラッと言ってくれる社長は優しいな。俺は、一社員として「ありがとうございます」と言った。
上条はそんな俺と社長のやり取りを隣で見ていた。
「ーーそれで、遅くなりましたが、先日の上条くんの件で、お返事に参りました」
上条が、パッと俺を見た。社長は、もう社長の時間は終わりとでもいうかのように、スーツのネクタイをほどきながら俺を見た。
「そうか。では、返事を聞こうか。いいな?蒼也」
「……あの、社長、柚原さんが……付き合うと言わなかったら、俺を他の部署に飛ばすというのは本当ですか?」
「………」
「………聞いたのか、柚原から」
「はい。柚原さんから返事を聞く前に、そんなことはしないと約束してください。どんな結果になろうと、私情で急に異動するなど、他の社員にも迷惑になります。そんなことが知れたら、社長の社内評価もガタ落ちしますよ」
上条は、まっすぐに社長をみてそう言った。社長はそんな上条を見ながら、ふっと笑う。
「随分言うようになったな、蒼也。だが俺の心配なんかしなくていい。お前をふった奴の隣で働くお前を、俺は見たくないんだ」
「……社長も、随分なことを言いますね。俺は、拒絶されることも承知の上で柚原さんに告白しました。大体、恋愛と仕事は関係ない」
「……ハッ、ほとんど初恋のようなお前がなにをわかったようなことを」
「ーーーあの」
言い合いを始める上条親子を止めるように、俺は声をあげた。ふたりの視線がこちらを向く。
「……なんだ、柚原」
「………」
「俺、さっき会社の仮眠室に運ばれたとき、上条くんにキスしました」
「ーーは?」
「ちょっ……柚原さん?!」
なに言ってるんですか!?と上条が叫んだ。
俺は社長を見ていたら、社長は少し首を傾けて聞いてきた。
「キス……か。どういう経緯でそんなことになったのか知らないが、蒼也からではなくきみから?柚原、きみの意思で蒼也にキスしたと?」
「はい」
はっきりそういう俺に、上条は珍しく慌てている様子だった。口元に手を当てながら俯いている。
……強がってもまだ社会に出たばかりの23歳。社長の言うように……自由がなかった身で恋愛だってろくにできなかったはずだ。
「………先日、俺はきみに蒼也を抱いてほしいと言ったが、あのときは蒼也がそれを望んでいて一刻を争っていたからだ。だが、今日は違うな?倒れて介抱していた蒼也に、そんなことする余裕があるとは、驚いた」
「俺もです。気づいたら、してました。このまま上条くんが俺の隣からいなくなるのは、嫌だと思って」
「…………柚原さん、」
「それは、きみが、蒼也を好きということか?付き合ってこの先責任を取るということか?」
社長は椅子から立ち上がり、俺の目の前に立った。……怯むな、俺。
「…………仮眠室で、上条くんにも言いましたが、まだハッキリわかりません。でも、彼がいなくなるのは嫌なんです」
「おいおい……昼休みの俺の話は頭から抜けたのか?わかりません、は通じないと言っただろ」
「わかりません。わかるわけないです、まだ告白されて……数日しか経ってないのに。でも、だからって上条くんを異動させないでください」
「父さん………っ、俺もまだ返事もらえなくてもいいです。柚原さんには、ゆっくり考えてもらいたいと思う。だから、異動とかはやめてください」
俺の言葉に重ねるように、上条が言って頭を下げた。
社長は数秒黙ったあと………溜め息をついた。
「随分と、俺も甘く見られたものだな」
「………」
「………蒼也、お前本当にそれでいいのか。柚原が結局はお前とはどうにもならないって返事をすることだってあるんだぞ。俺は、お前にとにかく悲しい思いはさせたくないんだ」
あの日、お前の母さんを守れなかったときから。
……と、社長は小さく呟いた。
「………父さん」
「俺の一番大事なお前の母さんの、一番大事なものは、蒼也、お前だった。俺はあの日から、母さんの代わりにお前を一番大事にすることに決めたんだ。……それくらい、わかっているだろう?」
「……わかって、ます。もちろん」
「お前にとって、俺は……邪魔だったか?飲み会ひとつ行かせない過保護すぎる親なんて、いない方が良かったか?」
「……そんなことはありません。そんな、こと言わないでください。父さんも母さんも、俺はとても大事です」
上条親子は……
母という絶対的な存在をなくしてから、うまく話し合えなかったのだろうか。社長は、息子の自由を制限することで、守っていると思っていたのかも……。
第三者の俺には、ふたりの会話がそんな風に見て取れた。実際には、ふたりにしかわからないんだろうけど。
「………柚原」
「!はい」
「みっともないとこを見せたな。忘れてくれ」
「いえ……」
社長は俺と上条を交互に見た。
「ーーわかった。異動の件も、今日、きみの返事を求める件も、白紙にしよう」
「えっ?いいんですか!?」
「蒼也がそう望むなら仕方ない。……息子の願いは、なるべく叶えてやりたいからな」
「父さん」
社長はそう言うと、「じゃあ、今日はこれで解散」と言った。
「……あの、社長」
「なんだ」
「ありがとう……ございます。許してくれて」
「別に許していない。きみのことを認めたわけでもないしな」
あ、そうなんだ……。そんな簡単にいかないか。
俺はすみません、と謝った。
すると社長は、「だが」と言葉を続けた。
「俺は明日からの土日、出張でいない。今から出るので、この家は蒼也に任せることになる」
「あ、大変です、ね……」
「蒼也が寂しがる姿は見たくない。誰か、側にいてやってくれるとありがたいんだが」
「!それって、」
上条が弾む声を上げる。俺は社長を見た。
社長は、父親の顔からまた、会社のトップの顔に戻っていた。
「夜更かしはするなよ、蒼也」
「………はいっ」
「社長、」
俺が呼び止めると、社長はふっと笑うだけで、部屋を出ていった。
残された俺と上条は顔を見合わせ、深い深呼吸をするように、安堵の息を吐いた。
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