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Ⅰ
体調が悪い。体の表面は温かいが芯が冷たいようで、気を抜けば体が震えてしまいそうになる。
原因は分かっている。昨日、気づいたら俺は城壁の上で眠っていたようで九時半頃に起きた。全身に痛みと寒気を感じているのはそのせいだ。
九時四十五分頃に部屋に着き、鐘が鳴るまで伏せていようと思っていたら眠ってしまっていたらしい。
「俺は九重八十。人間だ」
「わ、私は"平和"の神格体エイレネです」
好都合なのは起きてすぐ温暖の神格体だと思われる女性が部屋にいたこと。お蔭様で無駄な時間を過ごさず昨日のチャロが引き継いだであろう俺の疑問を尋ねることができる。
俺達には時間が無い。今まで何故こんなにのんびりしていたのかと叱咤したくなるほどに。
俺はあまりにも神格体という存在を知らなすぎる。やらなければならないことが多いのだ。神格体を知り、この世界の平和の意味を理解して導かなければならない。
早く、しなければ。
「私は"温暖"の神格体ゼストス。力は昨日見て頂けたと思うので省略します」
ゼストスと名乗った女性は一目で神格体だと分かる風貌をしている。
外側が薄ピンク色で内側が明るいベージュの髪が太腿まで伸びている。後頭部についている頭より大きい円形の機械的な飾り物から赤いリボンが伸びていて、同じく機械的なカチューシャがつけられていた。髪の色と同じピンクの瞳に優しい曲線を描く眉と目は温かさを感じさせる。
服装も全身が機械に覆われているわけではないが首から肘、胸を避けて腹部と腰から太腿と足に鈍く光る鎧を身に着けていた。それ以外の場所は布に覆われ、露出はほぼ無い。
「チャロから聞いているか」
「はい」
「じゃあ――」
「私が。先に、全てお話します」
俺の言葉を遮ってゼストスは言った。
「やはりあなたは嫌いです。何も言わなくて結構」
「そうか」
瞬く間に一触即発の雰囲気になったことでエイレネが悲しそうな表情をしてゼストスと俺を交互に見る。
嫌われていようが構わない。持っている情報を渡すのならそれでいい。
俺はゼストスの言葉を待つ。
「この対比神格体抗争は五十年続いています。神格体が絶命しなかったのは主に二人の神格体が奮起したから。一人は"昼"の神格体ミスメリイ様。もう一人は"予言"の神格体プロティフィア」
ゼストスは一旦間を置いて俺とエイレネを一度ずつ交互に見る。
「最初、空は朝と昼と夜に分かれていました。朝と夜は何度も抗争を続けましたが、神格体が絶命せずに終えたのはミスメリイ様が中立の立場で抗争に干渉したからです」
新しい情報もあるが、ここまではチャロに聞いたものとほぼ同じだ。口を出す必要はないし、詳しくて助かる。
「次第に朝と夜の抗争は大きいものとなり、力が強まっていった朝と夜に塗り潰されるように昼は消え、ミスメリイ様は存在意義を失い、眠りに就きました。それが十年前の話です」
これが昼の神格体ミスメリイが目を覚まさなくなった理由、か。
朝と昼と夜——確かに昼はどちらとも対比しているとは言えない。対比嫌悪が無かったから争うことをしなかったが、朝と夜の抗争を中立し続けるには力が弱かったのか。
「この十年、ミスメリイ様が眠りに就いてから本格的な抗争にならなかったのはプロティフィアの予言があったから。彼女は言いました」
『十年後、創生者の使いと平和の神格体が訪れます。彼らはミスメリイ様の復活に尽力を注ぎ、遠い未来まで平和を実現させることのできる力を保持しています』、と。ゼストスは一字一句違わないだろうプロティフィアの台詞を言った。
「復活と平和の力、プロイとニクタが重要視したのはどっちだ」
「……それは私の口から伝えることはできません」
ならば、前者だ。エイシオは両方の勢力どちらも平和を望んでいると簡単に口にしていた。その程度の情報を出し惜しむとは思えない。
おそらくプロイとニクタ、二人共ミスメリイの復活を求めている。片方が望んでいなければミスメリイの復活を待たず抗争を起こすだろう。
「もういいですね。私は失礼します」
「ミスメリイはどこにいる?」
立ち上がり、扉へと向かっていた足が止まる。ゆっくりと振り返ったゼストスの表情は眉間に皺が寄せられていた
「次にその名を気安く呼んだら容赦しませんよ」
メラメラと部屋の温度が上がる。これは温暖の力。
「お前にできるのか?」
「——マスターッ!!」
ゼストスが完全に振り返る寸前、エイレネが叫んで立ち上がる。
「ゼストスさん、本当に申し訳ありません。マスターは私が言い聞かせますので、どうかお許しください」
深く頭を下げるエイレネを見て、ゼストスは大きく息を吸って目を閉じ、吐き出す。すると再度扉へと歩き出して、部屋を出ていく寸前。
「あなたが『夜の勢力』に所属することを願っています」
そう言い残して部屋を出ていった。
「……」
「……」
ゼストスが出て行ってから数十秒、エイレネは下げた頭を上げなかった。ようやく顔をあげたかと思えば微動だにせず立ち尽くしている。
「マスター」
それはエイレネから初めて向けられた、本気の怒りが籠もっている声だった。
「説明してください」
「今の話か?」
「恍けないでください」
エイレネは振り返り、椅子に座る俺の横に立った。
「何があったんですか」
何があった、か。それを聞いたら困るのはエイレネだ。
チャロが俺だけに伝えたのはエイレネに配慮したから。エイレネにあの話はしてはいけない。あれはエイレネの存在を否定するのと同義だった。
「辛いことがあったんですよね。悲しいことがあったんですよね。私はマスターと出会って少ししか経っていませんけど、それでも分かります」
辛いのも、悲しいのも俺じゃない。これは、ただ俺がどう接していけばいいかを見失ってしまっただけだ。
「私じゃ力になれませんか」
それをエイレネに伝えたところで解決するわけじゃない。俺の中でいずれ消化させればいい。
「一緒に乗り越えようって言ってくれたじゃないですか。あれは、嘘だったんですか」
胸が酷く痛む。城壁の上で感じた、心臓を掴まれているような痛み。
「それだけでも答えてくれていいじゃないですか……っ」
俺はあまりの胸の痛みに立ち上がった。
「——お前の平和はなんだ?」
「——」
お前、と。そう言ってしまったことがリミッターを壊した。
「世界が平和になればいいと思う。抗争なんて無くなればいい。誰も死ななければいい。誰も悲しまなければいい。——それが本当にこの世界の平和なのか?」
言うな、と頭の中では分かっている。その言葉は目の前の少女を傷つけてしまうことも分かっている。にも関わらず、俺にはそれを止めるものが無かった。
「俺の平和とお前の平和は本当に一緒なのか?」
やめろ。
「俺は人間で」
やめろ、やめてくれ。
「お前は――」
それ以上、何も言うな。
「お前は、神格体なのに」
ガタン、と椅子が倒れて椅子と床が衝突する音が響く。その音が現実へと引き戻し、顔を上げるとそこにエイレネの姿はなかった。
倒れた椅子と開けっ放しの部屋の扉がエイレネがどんな行動をしたのか告げている。俺はギィと嫌な音を鳴らす扉を意に介すことはなく、目を瞑った。
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