24人が本棚に入れています
本棚に追加
(……ン?)
飛行機に乗り、寝るかと考えていたとき、妙な匂いがした。
殺気があるわけではない。見知った顔があるわけでもない。テロや暗殺を起こしそうな顔つきのやつもいない。
ただ、なんというか、……『嫌なことが起きている人間』の匂いがした。
(……こんなところで、拷問があるわけでもなし……なんだ……?)
匂いの出処をよく探る。
それは、通路を挟んだ窓際席の方からした『ため息』だった。疲労からこぼれるものではないそれは、明らかに『意図した、ため息』だった。
窓際席を眺めると、男と女が座っているようだ。
男の方は日本が言うところの中流サラリーマン、といった雰囲気で、女の方は俺の席からだとよく見えない。
(痴情のもつれか?)
ため息をついているのは、女の方だった。カップルが喧嘩でもしたのか、と一瞬考えたが、すぐにこの二人が乗ってきたタイミングは別々だったことを思い出す。それに、知り合いなら、機内に乗り込んでから一言二言、会話ぐらいするはずだ。しかし、彼らはこれまでなんの言葉も交わしていない。
(……じゃあ、なんだ?)
まじまじと、彼らを眺める。
(……アァ、『これ』か……)
男の足が女の足にベッタリと引っ付いていた。
(気色悪い)
キャビン・アテンダントの呼び出しボタンを押し、早く来いと思いながら、体を向けてまじまじと彼らを見る。男はこちらの視線に気が付き、少し姿勢を正した。が、それでも男は女の足に触り続ける。
一方で、その、被害にあっている女は……。
(……なぜ、その顔までして声を上げない……?)
その女は……なんというか……今にも男をくびり殺しそうな顔をしていた。なのに彼女は何も言わず、ため息だけつく。
(凶器で脅されてるわけでもなし、そんな顔をするなら叫べばいいものを……)
やってきたキャビンアテンダントに『あの性犯罪者が不愉快だからすぐに下ろせ。警察を呼べ』と言うと、キャビンアテンダントは状況を確認してから『すでに離陸体制に入っているため、下ろせない。着陸後の対応になる』などとよくわからないことを言ってきた。なんとか、何もせずに、収めようという意思を感じた。
(……そういえば、日本は性犯罪が多い国だったな。『空気を読む』……だったか。他人の時間を取ることに怯える性質の……小市民たち……稼ぎやすい国だ)
となると、被害を受けている彼女も、『空気を読む』、ということをしているのだろう。しかし、このあと十三時間、そんな顔でため息をつき続ける女が近くにいるのは『俺が』嫌だった。
「俺の視界に……俺の国に入れるなと、言っている」
そこでキャビンアテンダントは、ようやく俺がVIPだと気が付き、慌てて対応をし始めた。といってもおろすことはてきないのでスタッフの席で管理する、とも言われた。それほどまでに離陸の時間が押すのが嫌だったのだろう。
(掃き溜めのような国だな)
俺はなるべく怖く見える顔をした。
「あのゴミが俺の国に入るなら、始末の仕方は俺が決める。そしてゴミを出したこの機体、……この会社も俺が始末をつけることになる。残念だ。いい会社だった。株の売却の日取りを決めよう」
男を連れ去られ、無事降ろされた。
キャビン・アテンダントに、キャンセルで一席空いたのでファーストに移るかと聞かれた。
(それは俺ではなく、この女に言うべきだろう。ファーストなら安全も担保されるだろうし……)
そう思い、彼女を見た。
(何だ、その顔)
彼女は、キョトン、とした顔をしていた。
さっきまでの恐ろしい形相が思い出せなくなるぐらい、彼女は不思議そうに連れ去られた男を見送っている。丸くなった目、ツンとした鼻先、キュと閉じられた唇。幼さの残った顔立ちの彼女は、ちんまりと座っていた。
どこにでもいる、小市民だ。きっと、こんな席を買うのも無理をするような、普通の庶民。
(何が起きたかわかってないのか? なんてのんきな……間抜けな……、……)
なのに、……何故か、俺は彼女から目が離せない。
気がついたら、キャビンアテンダントに『移らない』と返していて、気がついたら、体の向きを変えてまでして、彼女を見ていた。
(……普通の子だ……、普通の……なのに、……なんで俺は彼女を見てるんだ……)
彼女は俺の視線に気がついたのか、こちらを向いた。
キョトンとしていた顔が俺を見て、怪訝そうに細められる。が、彼女の瞳に俺が映っていることが、……妙に胸を騒がせる。
(……、胸が……ムカムカするような……気持ち悪い……)
乾いた唇を舐めて、口を開く。
「……ああ言うのは、助けを求めていいんだよ。特に長距離移動はね、隣がやばいときついから。折角いい席なんだから、楽しんで」
彼女はパチパチと瞬きをした。それから、フィ、っと俺から目をそらした。その横顔を見て、はっとする。
(……俺は、何を言ってるんだ……わざわざ説明してやる意味なんかないだろ、くだらない……)
姿勢を直し、早く寝よう、と目を閉じる。ざわざわと耳の奥が騒ぐ。その感覚が酷く気持ち悪い。奥歯を噛み締めて、眠気を呼ぼうとしていると――
「助けてくれて、ありがとうございました」
――鈴を転がすような、愛らしい声だった。
目を開けて、彼女を見る。彼女は、まっすぐに俺を見ていた。ゾワゾワと耳から脊髄を抜けて足元までなにかが走る。
「ウン」
そして、俺はひどく、間が抜けた返事をした。
最初のコメントを投稿しよう!