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あの日を境に彼の姿を見掛けることはなくなってしまった。
桃色をいっぱいに広げ、それを何度も落とし、次に緑を広げ、赤や黄に色を変え、枯らし、落とす。そして冬の冷たさに耐えるとまた桃色が顔を出す。それを何度も何度も繰り返した。そしてそのすべてが私の意志とは関係なく行われていることだというのを、彼の姿が見えなくなって久し振りに思い知らされている。美しい、立派だとどれだけ多くに称賛されたって、あの人の一言には及ばない。
彼の熱心な視線を得られるはずの希望の一週間が過ぎ、散り際と呼ばれるこの時期をまた迎えてしまった。この皮肉な季節が早く終わればいいのにと、私はただ無気力に枝を揺らし、花びらを散らす。年齢が一桁程度であろう子供たちがキャッキャと歓声を上げながらそれを浴びる様子が見て取れるけれど、私にとってはそれ以上でも以下でもない景色だ。
「わあ、美しい! これがサクラ! 」
不意に子供たちの歓声とは真逆の方角から少し不自然な声が聞こえ、その違和感を探るべく意識をそちらに向ける。そこには髪色も瞳の色も見慣れない、肌の白い女性が瞳を輝かせながらこちらを見上げていた。美しい。日の光が反射する細く長い金色の髪に、晴れた日の空より濃い青の瞳。そして端正な顔立ち。この時期にしか褒め称えられない私なんかより半永久的に美しいものを持ったその女性の元に一人の男性が駆け足でやってくる。
「桜が見え出してから急に走るもんだからびっくりしたよ。……そうだろう。僕も十年振りに見るのだけど、相変わらずだ」
……少し顔がシュッとして身長も伸びただろうか。でも声はあまり変わらない。正装、スーツに身を包んで四角い手持ちの鞄を持つ彼は現代で言うサラリーマンに見える。
十年、それしか経っていなかったのですね。
喜びで全身が震えあがり、振動で花びらが一層舞い散る。その様子に彼の隣に立つ異国の女性が大袈裟なくらいに飛び上がり彼に感動を伝えた。反対側で戯れる子供たちと大差のない反応だ。
「すごい! すごいです! こんな素晴らしいシャワーを浴びたのは、初めて! 」
時々異国の言葉を交えながら彼の隣で全身を使って喜びを表現する女性が羨ましい。私は彼への溢れる程の愛も恋心も伝えることが許されない罰を食らっている最中なのだから。
「でも、この素晴らしさも、今だけなのでしょう? 」
「そうだね。でもその一瞬を僕たちに魅せるために一年を全力で生きて、その繰り返しをもう何百年も行っているという健気なところこそがこの桜の一番の美しさだと僕は思うんだ」
少し難しい日本語が出てきて理解が追い付かなかったのか、女性は少し眉を下げて彼へと視線を向けた。彼もそんな女性に向き直り、私の目の前で二人が見つめ合う。
「この町に戻って来られて良かったと思う理由の一つにこの桜もあったから、君に見せたいと思った」
この言葉は理解できたのか、女性は顔を赤く染めていく。その様子に彼は微笑み、柔らかな手付きで彼女の美しい金色の髪を壊さないように撫でた。
「これからは毎年、一緒に見に来よう」
微笑み合う二人、ゆっくり近付く距離、そして彼の腕の中に包まれていく女性。
……誰もが羨む幸せな光景の連続が私の絶望になっていく。
そもそも彼と再び出会うことがあったからといって私はこの姿であるし、彼と結ばれることは完全にあり得ないことだとわかっていたはずだ。なのに、何故か期待していた。彼の姿を見られるだけでいい、彼に美しいと思ってもらえるだけでいいと気持ちの表面では思っていたけれど、その薄い表面を剥がした先ではどす黒いものが深く蠢いていて、私がギリギリで保っていたその表面を剥がしたのが今目の前で繰り広げられた光景だった。
こんなものを毎年見ることになるくらいなら、いっそ死んでしまいたい。
でも私は枝垂れ桜。読めず果てしない寿命。いつ死ぬことができるのかわからない上にこの場所からも動くことができず、また一年後には桃色が満開になる。
私の意志とは関係なく美しい姿になる。私は私が嫌い。
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