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「貴重な子と書いて貴子です」
貴子は決まった名乗り方をする。貴子にとって名字は生活の面倒をみて貰える記号でしかないからだ。一人息子にも「貴重な雄と書いて貴雄」と名乗るよう教えるが、貴雄は自身の名を嫌い、特に「雄」という響きが許せない。
結果、貴雄は自己紹介もままならない内気な性格の少年を装い、日々をやり過ごしている。
ーー2000・6
雨を吸った通学路は足取りをより重くさせた。予報通りの降り方とはいえ、行き掛けに報せてくれる口、傘を持たせてくれる腕も貴雄にはない。
雨が止むまで待ち、家に着いたのは3時過ぎ。この時間だと息を潜めなければならないだろう。そっと鍵穴を回し解錠しつつ、貴雄は心のドアを閉めた。
貴雄が習ってもいない「雄」を知った場所はここ、貴子の経営するスナックである。自宅兼店舗の小さな城だけれど、女手ひとつ、それも子育てしながら持てる理由を貴雄は九九より早く覚え、理解した。
立ち入りを禁じられた店舗から放たれる香りに誘われ、迷い込むのが「雄」なのだ、と。
居住スペースへ続く階段を上る途中、甲高い声が床を這って届く。赦しでも乞うみたいな粘り気のある声はスニーカーソックスとの合間から侵食するので、貴雄はこちら側とスナックを隔てる磨りガラスを視線で削った。
革張りのソファーに転がる背広と金髪が見えたら、そのまま無言で鏡台に向かう。
鏡台に座って目を閉じるーー貴雄がいつからか身に付けた逃避方法。こうすると向き合っているみたいで逃げられる。瞼の裏で怒りも悲しみも失望すらも溶けていき、縁取りのない感情として流せた。
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